蜘蛛ノ糸
「俺はお前が見えるから、触ろうと思えば触れる。……別にあのまま落ちてもらっても良かったんだぜ」
市川は冷たくそう言った。
ちょっとでもドキドキした私がバカだった。
とんでもない薄情者だ、彼は。
「ひどい……」
ポツリとぼやくと、市川が私の方に向き直る。
「助けてやろうか?」
「どういうこと?」
「お前、1年の夏に死んだんだろ? 普通、死んだヤツは生まれ変わるか地獄に落ちるか、どっちかだ。
じゃ、どうしてお前はここにいるかっていうこと。つまり──」
市川によれば私は、やり残したことがあって現世と来世の間である“けもの道”をさまよっているらしい。
そういう人を“狭(せば)し人”と呼んでいるのだそうだ。
そもそも、やり残したことがあるからと言って、けもの道に留まる人間はそういない。
けもの道に入った魂は、現世と来世に挟まれた窮屈な状態だ。
だから、さまよった時間だけ、体力の代わりに記憶が消費されていくのだ。
──と、市川は大体こんなようなことを説明してくれた。
「死ぬ寸前の記憶がないのも、そのせいだ」
「私はどうすればいいの?」
「どうしてここに迷いこんだのか、それが分かれば何とかできる。こうやって話してる間にも、少しずつ記憶が消耗していくんだ。急ごう」
*6*
市川が呼び鈴を鳴らした時、玄関のドアを開けてくれたのは私の母だった。
中からうっすら漂ってくる懐かしい香り。
私が16年過ごした家……
それなのに母は私に目もくれず、市川だけを見ている。
それが少し寂しかった。
「どちら様でしょう?」
私の前ではあんなに冷静だった市川の表情に、笑顔が浮かべられている。
愛想笑いだ。