蜘蛛ノ糸
*10*
無事に生還できたとは言え、1年も昏睡状態だったので、今すぐ普通の生活に戻るのは困難だろう──というのが医師の見解だった。
しかし、目覚めた翌日にはベッドの上で手足が動かせるようになり、2日目には身体を起こすことができた。
更に3日目にもなると、普通の食事が摂れるようになったので、医師も「奇跡だ」と驚くほどの回復ぶり。
医師や新聞記者やそれ以外の人も、代わる代わる訪ねてきては口々に「奇跡だ」と言うけれど、
当の私はと言うと、けっこう冷静だった。
だって、その誰もが知らない市川の不思議なパワーや、“狭し人”の体験の方が私にとってはもっと驚くべき事だったからだ。
そして目覚めてから4日目の今日は、車椅子での移動が出来るようになった。
病室を出て廊下を進んでいると、背後から声がした。
「日渡」
「えっ?」
顔だけで振り向くと、市川がこちらに歩いてくるのが見えた。
市川が車椅子の押手を掴む。
「どこに行こうとしてたんだ? 押してやるよ」
「あ、ありがと」
市川に押してもらって、私たちはラウンジの窓辺へやって来た。
窓から見えるのは青い夏空と、いつもと変わらない街並みだ。
景色に視線を落としたまま、市川が話しかけてくる。
「具合は?」
「順調すぎて、みんな『1年も眠ってたのにこんなに回復が早いのは奇跡だ』って騒ぐの。私は……私にとっては……、市川が助けてくれたことが奇跡だと思ってる」
そうか、とだけ言ったきりで、私の顔は見てくれない。
私は私で、市川に感謝したいけれど、笑顔で喜ぶのは何か違うような気がして、もやもやした気持ちでいた。
「……市川」
「ん?」
「どうして私を助けてくれたの? それにあの紅い眼……一体何者なの……?」
市川の瞳が初めて私を捉えた。
そして、怪しく微笑んで言う。
「“蜘蛛”──」
“クモ”──……?
「──の糸って信じる?」
「え……?」
あの、地獄の池から死人が上ってくるっていう話のこと……?