新しい歌
まだ時間は宵の口だというのに、通りには然程人影は無く、表通りの喧騒から取り残された一角という寂しさが漂っていた。
焦げ茶色の扉に、申し訳程度に小さく書かれた『深海魚』という店名を目にする度、私はつい店主の顔を思い出し、笑いたくなってしまう。
名前の通り、深海魚を思い起こさせるような容貌をした店主は、私の四十年来の友人だ。口の悪い連中は、自分の事を店の名前に付けていると言うが、本人は至って真面目な意味でこの名前を付けたようだ。
深海魚のように、目立たずじっとしている。人生派手に動き回っても疲れるばかりさ、という意味らしいが、誰も本気で額面通りには受け取っていない。
元ドラマー。長束陽二。一緒にバンドを組み、それこそ一時はお互いにマスコミの寵児となった事もあった。尤も、長い人生の中に於いて、それはほんの一瞬の事でしかなかったが。
彼は音楽の世界からきっぱりと身を引き、三十年連れ添っている恋女房とこの店をやっている。
扉を開けると、深海魚と恋女房が居た。
「お疲れさん」
深海魚が、幾分太り気味の身体を揺すりながら、カウンター越しにフリージングされたショットグラスを出した。
長年の習慣で、私はどんな時でも最初の一杯目はズブロッカと決めていた。
「風間さん、今日は早いのね」
横合いから、元女優である恋女房が手作りのキムチを出した。
私の大好物。特に、彼女が作るキムチは最高だ。余計な事を言わずとも、自分の好みの物がさっと出される。何よりのもてなしであり、癒しである。
「もうすぐ浅倉も来るよ」
「あら、ダイちゃんが顔を見せるなんて久し振りだわね」
「あいつは、いつもきれいなお姉ちゃんが居るとこでしか飲まないからな」
「きれいなお姉様なら、ここにも居るのに」
「二十五歳以上はやつの範疇に入らないのさ」
夫婦漫才のようなやり取りを聞きながら、私は一杯目のズブロッカを飲み干した。