新しい歌

 那津子の事は小さい頃から知っていた。

 浅倉の家にも、彼が私達のボウヤをやっていた関係から、メンバー全員で何度も遊びに行った事があった。

 浅倉の実家は神奈川県の逗子にあり、目と鼻の先は湘南海岸だから、私達はそれこそ彼の家を海の家かホテル代わりに利用していたものだ。

 彼の両親も私達に良くしてくれ、遊びに行くと心から歓迎してくれた。

 当時、那津子はまだ小学生だったから、私達は彼女を共通の妹というような思いで接していた。彼女自身、いっぺんに四人も兄貴が出来たと喜び、しかも新しく出来た兄貴達は、人気絶頂のバンドだったから、友達にも自慢げに話していたらしい。

 そんな環境の中で過ごしていた那津子だったから、自然に音楽に目覚め、そして志すようになった。

 那津子が音大に入った時には、既にロンリーハーツは解散し、兄の大二郎は作曲やプロデュース業へと転身していた。

 バンドは解散し、浅倉も私達のボウヤではなくなっていたが、付き合いは続いていた。中でも私と一番うまが合ったのか、彼とはしょっちゅう羽目を外したものだ。

 そういった中で、那津子は音大を出た後、アメリカのジャズスクールへ留学した事もあって、久し振りに彼女と再会した時には直ぐに彼女だと気付かなかった位であった。

 私は、見違える程の大人になった彼女に一目惚れをした。初対面ではないから、一目惚れはおかしいよと後になって浅倉は笑ったが、私にすれば、再会した時に初めて那津子を女として意識したのだから、やはり一目惚れというべきだろう。

 那津子は、当時としては珍しいボイストレーナーの仕事を始めていた。

 時折、コンサートのバックコーラスなどもしていたが、普段は潰れた渋谷のライブハウスをスタジオにした教室で、デビュー前の歌手の卵達にアメリカ仕込みのボイストレーニングを教授していた。

 そのスタジオへ、私は何時しか足繁く通い出していた。






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