鏡の彼
 彼がいた。彼はまだ赤ん坊で言葉もくに喋れていない。だけど、済んだ瞳には自然と惹きこまれそうになった。彼は母親に抱かれてあやされている。でも、どこか満足していないような顔。視線はあの姿見がある部屋へと続いていた。


 それから、数年後の場面になっている。彼は四、五歳だろうか。言葉も喋れて、軽快な足取りが家の中を跳んでいる。

 正直に言って、かわいい。この場面を見物している私は彼に内緒で微笑んでいた。あれが、こんなのに成長するんだから、人生って惨いよね……。

 彼はふと、鏡の部屋までやって来ていた。母は電話をしているのだろうか、話声が聞こえる。

 部屋に入ったのには気付かず、彼はひょっこりと扉を覗いた後、しめた! とばかりに部屋に上がり込んできた。

 シンプルな部屋にぽつんとある鏡。彼は興味をそそられた。鏡に手あとをベタベタ付けて、自分と同じ仕草ばかりする鏡にじゃんけんを挑んでいる。


「じゃんけーん……!」


 何回目だろうか、飽きずに戦う彼の顔がふと変わった。

 じゃんけん、ぽん! 彼はグーであった。だけど、鏡はパーを出していた。そこにいた女の子。―私だった。

 あどけない少女の姿で私がいた。小さい姿でも自分だってはっきりと分かる。
 彼は、不思議に傾げたが、すぐに笑顔が戻る。純粋無垢なこの少年には恐怖が湧かなかったのだろう。
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