鏡の彼
 朝食を済ませて、私は鞄を取りに再び部屋に入った。

 姿見を元に戻して、忘れ物がないかをチェックする。

「お前なあ、いつまで人を壁とチュウさせるつもりだ!!」

 叫ぶ彼の声は母には聞こえない。しかし、私の声は当然母の耳に届く。私は声を殺して話すのだが、彼の大声にはいつもつられてしまう。

「ほんの八つ当たり。すぐに元に戻したでしょ?」

「うるせえ! だいたいこっちは何も無くてつまんねえってのに、壁に向けられたら今度は光すら奪うのかよ!?」

 いらだつ彼に、私はやりすぎたかな、と思ったが口には出さなかった。

 もう、時間が迫っている。このままだと遅刻間違いなし……。

「あーもう! わかったから大人しくしてなさいよ! それじゃ、行ってくるから!!」

 私は、ベッドの横にある充電器から携帯を外し、無造作に鞄に詰め込んだ。ばたばたと小走りでいる私に母が、あなたが慌てるなんて珍しいわね、と言っていたが私は何も返さず扉を強く閉めていた。

 部屋に一つ、忘れ物を残して。
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