カウントダウン
 田原(たはら)浩(こう)がロンドンにやって来たのは、昨日であった。彼は三十六歳である。日本でのサラリーマン生活に疲れ果て、妻子と別れて霧の都を彷徨していた。
 バッキンガム宮殿近くのホテルに取敢えず宿泊している浩は、来週から日本食レストラン、
「桜」
 で働く手順になっている。桜のオーナーは小、中学の同級生であり、浩の日本脱出に助力してくれた唯一の親友だった。
 海外での新生活に対する不安と幽かな希望を胸に、浩はソーホーを遊歩している。晩秋のロンドンは冷え込んでいたが、寒くは無い。浩は真黒なコートに黒ズボン、黒革靴、黒靴下という全身黒尽くめで、王冠のネオン煌く若者の街ソーホーに滲(にじ)んでいた。
 浩は一六〇センチの小男なので、白樺の林を進んでいる様だった。日本人はロンドンにも多数居て、時折黄色い顔貌(がんぼう)が見受けられた。浩はそ知らぬ振りで、擦違うのみだ。日本人が疎ましかった。
「ロンドンは治安が良い」
と聞いていたので、嘗てニューヨークや上海を夜行した用心深さなんて忘れていた。
 
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