澁澤雑文店-澁澤わるつ短編集-
Un Vacant
その男は、最期の瞬間、何をみたのだろう。


針やナイフで傷つけられた無数に傷つけられたこころに持った、

でも、死ぬ気のない女が、人ごみにぽっかりとあいた不在に向けて問いかける。


見たんでしょう?


落下地点を間違って、路上の自転車のかごに頭を突っ込んだ、

無様なその姿をひとにさらして。


見たんでしょう?


かごの金具にぶつかるまでの、自分の人生の、ダイジェスト。


かっこうよいつもりで、あるいは鳥の気ままさで空をとぶことを夢見て

ビルの屋上から、身体を重力から手放して

落下していく、長くて短い伸び縮みする時間の中で、自分が消えていく瞬間を。



重力から開放されるって、どんな感じ?


『その』一線を超える、胸の高鳴りと、


落下する速度のなかに覚える、後悔は?



さっきまで、肉体を置いて

そして、今は、空白の中にこころを残して

去っていった、あなた。



今は、こころさえも三千億度の彼方に旅立った、名も知らぬあなた。



こっそり、聞かせてよ。



傷だらけの胸に、砕けた歯いっぱいの言葉で教えてよ。



社会からはずれた人間に、組織からはずれた人間に、醜い女に、無様な年寄りに、

お前は生きているだけでムダだと、世界にののしられつづける人間に。



『それでも、生きる価値はあるのか』、と。
< 21 / 23 >

この作品をシェア

pagetop