揺らぐ幻影

しかし、努力を決意し十秒もしない間に、

「あの、田上さん、寒い」と、隣の席の大塚に言われてしまった。

  うっわ〜、最悪

  なんで邪魔するかなぁ

思わずしかめ面をしそうになった。いや、むしろ露骨に不機嫌全開で眉を寄せていた。

後五分もしたら授業が終わる。そうしたら近藤が廊下を通るかもしれない。

閉めたら見られないから頷けない。



「暖房で空気こもってるし今風邪流行ってるじゃん、換気しなきゃじゃん? 大塚くん馬鹿じゃないから風邪引いちゃうよ?」

ぐるぐる頭を巡るのは、小学生の時に保健室の先生が言っていた言葉だった。


下手な言い分に舌打ちしたい気持ちを隠し、結衣は苦笑する。

馬鹿は風邪を引かない〜のやりとりは腐るくらい見聞きするが、

普通に考えて笑えるポイントが薄いのに、なぜ世間では『ヒッドーイ! 馬鹿じゃないもん』や、

『それ嘘だよ、アタシ頭良いもん』のパターン化された会話を繰り広げるのだろうか。

結衣の中では五十六番目あたりのしょうもない疑問だ。


ゆるゆると入り込む空気は冷たくて、せっかくシャープペンシルを握れるようになった手の熱を奪う。

クレームが起こる前に窓を閉めようと手を伸ばした時――


「確かに換気しなきゃな」と、一言。

なぜか大塚は納得してくれるので、結衣はそんな彼に頭を捻る。


  ……、?

まだ一時間目なので暖房はほとんどきいていない。

当然結衣も寒いと思っているけれど、恋心は寒さに勝るので我慢して開けたのだから大塚も寒いだろうに。

てっきり閉めろと言われると思っていたので、よく分からず――しかし嬉しさのあまり満面の笑みを向けた。


  ……変なの

  大塚ってば顔赤い


彼女は知らない。
女友達が少なそうな鈍感無垢ガールではないため、ある程度自分の容姿レベルが通用する事実を把握しているが、

男子に恋人ラインで可愛いと高い評価を得ているとまでは知らない。


知らないと知ろうとしないことは違う。
気付かないことは時に罪になる。

どうかこの想いを悟ってくれますようにと、授業中に愛しの彼へ祈ることが誠実なお勉強だ。



…‥

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