揺らぐ幻影

そんな世の中、皆は忘れているんだと思う。

恋に感情全てを委ね、おもいっきり浸かってみるのも、なかなか勇気がいるのだから。

今の気持ちを味わえるのは一瞬しかないのだから。


恋人依存患者にイラっとする彼らは、一生懸命に恋愛をしている人が羨ましいのかもしれない。

そう、何も気にせず自分中心な恋に酔える人に、本当は憧れているのかもしれない。

周りより彼氏優先の恋愛体質になるには、逆に勇気がいると尊敬してしまう。


大きなブラシで淡い桜の花びらのようなチークを塗れば、ホッペが近藤を見た時と同じ色に染まる。


そう、赤面級に良いこともあったではないか。

昨日の夕方はイマイチでも昨日の朝は近藤の声を聞いた。幸せの絶頂を知った。

  大丈夫って、言ってた

  私に言ってくれた!


そうだ、結果的に体力は消費して疲れたアルバイトだったが、

昨日は雇われ店長にも『ニコニコして可愛い』と、褒められた。

それは明らかに近藤の大丈夫という言葉が頭を巡ってやる気が出た影響だった。


  お客さんにも頑張ってんなって褒められたし

  笑顔が良いって

やはり、日常生活を充実させていくのは恋の力だと実感するしかない。

片思いをしていない頃の彼女ならば、一人ホールを押し付けられ精一杯やっているのに、

お客さんに遅いというオーラを出されたらブータレただろう。

トイレを直していた子にだって、サボってるのではないかと内心イライラしただろう。


けれど、恋をしている新しい自分になると、たかが一目惚れでも、

なぜかもっと頑張ろうと人に優しくしたいと思えた。


昨日はお利口さんそのものだった。
ゆとり世代だけに、心にゆとりがあるなんて素晴らしいではないか。


すなわち、なにもかも近藤のお陰でしかない。


鼻歌まじりに太陽の下自転車を走らせる頃には、身体のけだるさなんて結衣が感じることはなかった。

夜露の湿気と冷えた空気はひやりと這うように皮膚を覆う。

朝日が霜の粒に反射してキラキラした世界は、ホログラムをばらまいたように綺麗で、

通学路が楽しくなると、毎日幸せに向かっているのだと感じられた。

このお気楽思考が結衣らしさだ。

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