ボーダー
康一郎がお風呂の様子を見ている間、少し部屋を見て回っていた。
すると、彼のスーツのジャケットのそばに落ちていた、几帳面に切られた付箋付きの紙が目に入った。

ゴミならば捨てておこう、と思い、それを拾い上げる。

紙は芸能事務所の名刺だったが、それに付けられた付箋には、見覚えのある女性らしい、整った字が並んでいた。

今日の、明日香さんとの打ち合わせのときに見た、彼女の字だ。

彼女と仲のいい高校生が、モデルにならないかと芸能事務所からスカウトされたようだ。

このご時世、モデルへのスカウトだと思わせて裏で若い高校生をいかがわしい商売の道具にしようと企む輩が多い。
そんな被害に遭わないよう、この名刺の芸能事務所と、この人物について調べてくれ、という意味のことが書かれていた。

なるほど。
頭が回る彼女の考えそうなことだ。

お風呂は準備が出来たようだ。
そのことを伝えに来たであろう康一郎に、手を上げて、名刺をヒラヒラとさせながら言う。

「ね、康一郎。
明日香さんの字ね、これ。
私、仕事上、自分のブランドを立ち上げたからお店を出したい、っていうタレントの相談に乗ることもあるの。
あと、芸能事務所を移転して内装もリニューアルしたいんだけど、いいアイデアないか?とかね。

私なんて、まだ会社の中では新米の空間デザイナーだけどね、そういうところで繋がりはあるから、聞いてみるよ。

名刺写真に撮って送れば、わかる人いるはずだから!
分かったら、明日香さんに直接言うね?」

私の台詞を聞いた彼は、口をあんぐりさせる。

空間デザイナー目指してるって、そういえば彼には伝えていなかった気がする。

広いとはいえない浴室に案内されると、彼が何気なく話した言葉に、私が口をあんぐりさせる番だった。

「ちゃんと食べてるのか?
まったく。
俺は、不動産投資がうまくいって、いろいろ別荘も持っている柏木グループの一員らしい。

今はマレーシアにいる親父と、その祖父母のところにお前を連れて行ったら、遠慮なく食べなさい?と言って色々食わせてくれそうだ。
その絵が目に浮かぶよ。」

柏木グループは、私の会社の主要株主だ。
あれ?ひょっとして、私、とんでもない人と夫婦になるの!?
バレたらクビだ、と吐露する私を見て、優しい微笑みを浮かべる。
私の分まで、身体に付いたボディーソープの泡を流してくれた彼は、私の身体を抱き上げて、浴槽に入れてから言った。

「あ、志穂。これは、ちゃんと頭の隅に入れておいて?
あと半年後、俺と一緒にマレーシアに行ってほしい。
俺の親父と祖父母に、一緒になる人のこと、紹介したいんだ。
ダメ?」

ダメなわけがない。むしろ嬉しい。
ちゃんと、私のことを将来を共にする人として考えてくれているということがそのセリフから伝わった。

何より、柏木グループに携わる方から、仕事に関わる話をいろいろ聞けるかもしれない。
その期待もあった。

彼の嬉しい誘いにも、仕事のことを絡めるなんて、私は相当のワーカホリックらしい。

深くキスをすると、そのキスに応えてくれたあと、そっと身体を離した彼。
まだ30分も浴槽に浸かっていない。

しかし、私の膝あたりにあるものが、硬さと大きさを増していた。
どうやら、彼のスイッチを入れてしまったらしい。

2回めの行為の前に、彼の複雑な家族構成をぼんやりと聞いた気がするのだが、あまり覚えていない。
1回目より激しさを増した行為についていくのがやっとだった。
気がついたら終わったか終わらないかの間に眠ってしまったのだ。

翌朝、彼に起こされて、まだ目も開かないうちにホテルを出て、車に乗せられる。

車は彼の同期のものだから、返した。
夜勤終わりだというので、気を利かせて車には缶コーヒーとミントガムを添えた。
その足で電車に乗り、降りた駅で目に入ったカフェのモーニングメニューをパクついた。

電車を乗り継いで、廃墟みたいな建物の前に来ると、康一郎はスーツの胸ポケットからブローチのようなものを取り出す。

「認証済」と表示されると、扉を開けて中に入る。
見た目がボロかった廃墟とは思えない、パソコンに向かう人々の姿がそこにあった。

人工衛星とかと交信する場所か、小さい頃に社会科見学で見た110番を受ける場所みたいだった。

「ここで皆仕事をしてる。
副業をしている人間もいるけど。
基本的に、志穂は顔を出すくらいでいい。
本業、激務なんだろうから。」

康一郎は、パン、と手を打って仕事場にいた皆の視線を集める。
制服の同じ高校生の男女3人が、真っ先に集まってきた。

「柏木室長、お久しぶりです!」

「ああ、そうだな。」

慕われてるんだなぁ、康一郎。


「柏木……まだ違うんだった、
柊 志穂です!よろしくお願いします!」

皆に一言挨拶をして、高校生たちにいろいろ質問責めにあった。
緊張していた私は、明るく話しかけてもらったことで緊張がほぐれた。

なんとか、この場所に馴染めそうだ。
< 111 / 360 >

この作品をシェア

pagetop