愛しいライカ

サムライの香水の匂い。

私があ然としている内に、いつの間にか男はそばに立っていた。


「でもこの金網を越えちゃったらほんとのパラダイスになっちゃうね」


そう言って私と男の間を挟んでいる金網に手をかけた。

笑えない冗談。

それまで薄い笑みを浮かべていた男が真顔になって私を見下ろした。


「その先は何もないよ。それでも飛び降りるの?」


私は金網の向こうに立っていた。

強い風が吹きつける。

金網から手を離せば、あっと言う間におじゃんだ。


「おれだったらコンクリートの上より宇宙で塵になったほうがマシだな」


私は男を睨みつける。


「あなた。さっきから何が言いたいんですか」


もしかして宇宙オタク?

こんな時にやっかいな邪魔者が入ったものだ。

ふっ、と男の唇にまた笑みが浮かぶ。

苛立ちが募った。


「何があったか知らないけどさ。君若いんだし、早まらないほうがいいんじゃない。っておれも若いけどね」

「…そんなこと、あなたには関係ないです」


私が素っ気なく返すと、彼はため息を吐いた。


「まあ。おれは君のことを止めはしないよ」


ふいにサムライの香りが離れていく気配がした。

えっ、と私は思わず振り返る。

てっきり止められるかと思っていたのに男は私が飛び降りることにたいして興味がない様子で出口に向かっていた。


「スプートニク号のライカ犬。ウィキペディアで調べてみたら分かるよ。自殺するかどうかはそれから考えてみたら」


あ、と男が振り返る。


「ちなみにマイライフ・アズ・ア・ドッグっていう映画もおすすめ。じゃあね」


それだけ言って男は私を残して屋上を後にした。
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