三成は関ヶ原の経験から、人間に絶望している。関ヶ原は欺瞞と裏切りの、舞台であった。旗頭に仰いだ毛利家の将吉川広家四十歳は豊臣政府軍主軍を率いながら、家康に内通して戦闘不参加を貫いた。毛利軍の背後に布陣していた安国寺、長宗我部、長束等の部隊を拘束して豊臣政府軍戦力削減の元凶となった。豊臣家連枝小早川秀秋十九歳は寝返って豊臣政府軍壊滅の契機を造った。同郷の近江出身で、賤ヶ岳七本槍の一人脇坂安治五十七歳も小早川に便乗して背反した。薩摩の太守島津義弘六十六歳は豊臣政府軍敗退後、僅か一五00の兵で東軍に打撃を与える程の精兵を率いながら、三成に不服で戦闘を諦観している。裏切り者は数え上げれば限(きり)が無い。
 当初より東軍に与した太閤の縁戚尾張清洲城主福島正則四十歳。足利、織田、豊臣の世に仕えた細川幽斎の実子で、丹後宮津城主である細川忠興三十八歳。太閤の軍師黒田如水の継嗣で、豊前中津城主である黒田長政三十三歳等には、三成は忿々たる不快感を抱かない。許せぬのは土壇場になって保身しか念頭になく、味方を攻撃、或は見殺しにした無節操者達の性根であった。
(せめて、誰がどのようにして豊臣家を没落させたか確かめたい。そして帰坂して秀頼様にこの度の不祥事を詫び、豊臣家と命運を共にせねば、死んでも死にきれぬ)
 三成は家康に本気で抗しきれるとは、思惟していない。東軍が大坂に達する前に帰還し、豊臣家防衛戦貫徹を願望しているのみである。一刻も早く、大坂へ辿り着かねばならなかった。

 与次郎は三成の忠烈なる志を了解した。
(村内の様子を探り、治部少輔様脱出の機会を捉えよう)
「明日。里の情勢を視て参りましょう」
「頼む。体調が元に戻ったからには、何が何でも大坂へ戻らねばならぬ」
 三成には大坂しか生還する所がない。居城佐和山は九月十八日に落城している。噂によれば石田家家中の者は尽く、女性に至るまで城に殉じたという。三成は一介の落武者だった。三成は与次郎の献身によってのみ、この世に生存していたのである。 
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