翌日。与次郎は年貢米免除を己の命と引換えに要求した書を記すと夕刻妻に、
「一寸佐和山へ行ってくる」
 と言い残して出て行った。
 月夜を独行する。与次郎は明日の夜までに、佐和山へ着く心算だった。
 道中叢(くさむら)で日が昇った。
 昼。米原の茶屋で団子を食っていると、老壮漢と店の女子の会話が聞こえてきた。
「古橋村へは、どう行けばよいのかな」
「さあ」
 小娘は首を傾(かし)げている。
「御侍様。そんな所へ何しに?」
 愛想はいいが、人相の余り良くない主人が問うた。
「あの一帯が冷害に見舞われ難渋しておるので、どんなものかと思ってな」
「どんなものか見に行きなさるんで」
 武士は頷(うなず)いた。
「酔狂な方やなあ。それとも何か御役目で?」
「左様役目じゃ」
「すると御侍さんは石田家の方?」
 少女は好意的な眼差しだ。
「うむ。治部少輔様は内治に格別御熱心でのう。この湖東の地、民を殊の外慈(いつく)しまれておる。古橋村の冷害を耳にされ気にかけられてな。わしを偵察によこされたのじゃ」
「へえ」
 店の主人と給仕は、目を丸くしている。佐和山城主石田三成が、肥後の加藤清正と並称される名君だとは両人は承知していた。三成の熱心な治政の実例を目の当りにして、感激してしまっている。
 石田家家臣と知って、与次郎は何気ない素振りで聞耳をたてている。与次郎は二重で睫(まつげ)が長い。高からず低からずの鼻に丸顔の小男で、幾分白髪混じりの総髪に、髷をのせている。羽織袴で決めていた。士夫は名乗らなかった。主人に道を教示してもらうと、礼を述べ釣銭を拒否して店を出て行った。
 与次郎も団子を茶で流し込み、銭を置いて店外へ踏み出した。士人の筋肉質の背が、日光に反射している。藍色の羽織が揺れていた。中肉中背の老雄を、与次郎は追跡していく。
 やがて漢は人影の絶えた道に入った。与次郎は勇を鼓して声をかけたのである。
「申し御侍様」
 与次郎の期待と不安の混合した声差に、翁は振り返った。
「わしか?」
「へえ。先程の茶屋で聴いてたんですが、御侍は石田家家中の方で」
「うむ」
 老士は剛直な髭面である。
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