「石田三成悪人説」
 を新領主井伊直政は、盛んに触回った。古橋村民は誰一人として、それらの諸説を信じなかった。古橋村民にとって、三成は心の君主であった。三成は免租と百石米の下賜により、村民の生命を救済しているのだ。
「もうあんな偉い殿様とは、二度と会えんやろ」
 村民はそう語り合った。三成の統治時代を、
「夢の様な時代だった」
 と追想するのであった。

 与次郎は元の生活に戻った。三成の命を救えなかった己の無力と、絶縁した与吉への恨みを抱えながら、表面上は何事も無かったかのように暮していた。変哲の無い日常生活に疑念が湧いたのは、年の瀬である。おけいの行動に不自然な点を見出したのだ。何刻も家を空けたり、密かに食物を持ち出している形跡があるのだ。
(若しや)
 粉雪の舞う或る日。おけいが黙って外出した。与次郎は不安に駆られながら、尾行を始めたのである。
(わしの勘違いであってくれればええが)
 竹包を小脇に抱えたおけいは、道を急いでいた。心を込めて握った握飯を、離別させられた良人に届けたかった。
 与吉は離縁されて、行く所が無かった。実家は長兄が継いでいる。
「与吉が治部少輔様を売った」
 という悪評は知れ渡っている。実家も世間を慮って受入れてくれない。身一つで辻家を放逐されたので働き口を探したが、
「治部少輔様を売った悪党」
 という履歴が災いしてまともな就職先はなかった。いかがわしい職種に就いたが直ぐやめてしまい、行き場を失っていた。三日前密かにおけいと連絡を取り、三成が潜伏していた窟居に潜居しているのだ。
「人生の皮肉」
 を与吉は痛感している。
 おけいは洞穴に降りていく。与次郎は眩暈に襲われた。
(矢張り)
 与次郎は、
(あの中に与吉が居るのや)
 と確信できた。おけいは出てこない。
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