蒲公英
「ねぇ、愛海さん?」




彼女は未だに僕のことを愛海さんと苗字で呼ぶ。




「ん?」




僕はなにも察することなく、それまでどおり、ただ気のない返事をした。

河南子はためらいがちに僕の方に向き直り、赤く染まった顔を隠すように俯いた。




「両親が…最近うるさいの」

「なんて?」

「そろそろ、って」

「え?」

「だからっ」




鈍い僕には河南子はさらに頬を染めた。




「お前もそろそろいい年なんだから、って…」




最後はほとんど消え入りそうな声だった。






そこまで言われればさすがに僕にもわかる。

要はプロポーズを急かしているのだ。






…ためらう気持ちがなかったわけではない。






「もちろん、私はそんなこと少しも気にしてなんかないんだけど」






だが僕ももう27になった。

言い訳のように慌ててそうつけたした河南子のこれ以上にないほど真っ赤な顔。

そして読んでいたはずの詩集の1ページも動かされていない栞を見て、僕は小さく微笑んだ。




「そうだな。待たせすぎたのかもな」

「え?じゃあ…」

「あぁ。結婚しようか」

「愛海さん…」




何度も頷きながら涙を零す河南子を抱きしめる。




「泣くなよ」

「だって…。愛海さんにそう言ってもらえる日を本当に夢見てたんだもの」

「わかったから泣くなって。それと、もう俺のこと愛海さんって呼ぶの禁止な。これからは河南子も愛海になるんだから」




腕の中で河南子が頷くのがわかった。




「ほら。じゃあ呼んでみて」

「……」

「ほら」

「…湧己、さん」

「よくできました」




彼女の照れてかすれた声。

僕らは微笑みあって幸せを噛みしめた。
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