エングラム
あくまでアサーティブに彼は言った。
「そうですね」
否定はしない。できない。否定の仕方など忘れた。
「ここなんか好きなんだ」
オウ兄の言葉の後ろで扉が音をたてて閉まった。
空間は灰色。空気は埃味。
「そうなんですか」
相槌を打つ。それに続く言葉はない。
「上まで歩くよ、屋上」
灰色の階段に片足を乗せて、私に手を伸ばす。
「手、とって」
差し延べられた手をとるのに戸惑う。
だって私、汚いって言われたから。
そんな優しいの慣れてないから。
宙をさ迷った手を下ろそうとしたら、捕まれる。
「寂しいじゃんか、シラン」
優しい──柔らかく笑った顔。
「あ、ごめん…」
「ありがとうがイイ」
タン、タン、と階段を上りながら言葉を交わす。
「…オウ兄、ありがとうございます」
「どういたしまして」
照れ臭くて俯いたら、くすくすと、不愉快じゃない笑い声。
少し高い位置で、天然パーマの黒髪と広い背中が目に入る。
十三歳だった私には、近くて遠い背中だった。