ひめがたり~いばら姫に真紅の薔薇を~
「……か」
櫂の形いい口が何かの言葉を紡いだ。
櫂は依然眠ったままだ。
寝言?
うわ言?
あたしは思わず櫂の口許に耳を寄せる。
「せり…・・か」
あたしの名前だった。
「いく……な」
どきり、とした。
小刻みに震える長い睫。
苦渋に歪まれていく端正な顔。
「櫂……?」
思わず訊いてみたけれど、応答はなく。
「あたしは居るよ」
ただ…"今"だけの事実を口にして。
あたしは微笑んで、櫂の頬を撫でた。
すると櫂は表情を柔らかくして、
眠ったまま、ふっと笑った。
安心したような微笑み。
寝ていても端正な顔は、あたしだけのものだった昔の櫂の姿と重なる処がなくて、とても寂しくて仕方がないけれど。
「芹霞……」
変わらずあたしを呼び続けてくれるのなら。
あたしはそれ以上を望んではいけない。
「櫂、ごめんね?」
あたし、約束したんだ。
――条件を呑むわ。
もうそろそろ時間なの。
あたし、行かなきゃ。
「元気でね」
出来るのなら――
また会いたいね、櫂。
――神崎芹霞、家出します。