唐女伝説
道鏡は一日中薬師寺に籠もりっきりであった。嘗て常に何十人もの従者に傅かれ、栄耀栄華を極めたこの男の側には、たった一人、身の回りの世話をする年配の女がいるだけだった。小助がちらりと見た限りでは、道鏡は眉毛も真っ白になり、脂ぎっていた体格からは、すっかり肉が削げ落ちてしまっていた。どう見てもただの老人である。血色は悪く、餓鬼の如き灰色の肌は、道鏡の死期が近いことを予感させた。道鏡の不貞不貞しいばかりの梟雄然とした姿態しか知らなかった小助は、現実の道鏡の哀感溢れる人間像に、光陰の重みと事実の不可思議さを体感し、夜旅宿で一人思案に喘いだ。
(あいつの命は今や風前の灯火だ。このまま放っておいても近い内に死ぬだろう)
仇敵の老いさらばえた現状に、小助の闘志も萎えかけている。
(世に悪の栄えた例無し、と言う。真かもしれない)
小助は奴を殺るべきか否か始めて迷罔している自分に、この十五年という歳月の比重をぶつけてみた。思えばあの悪党の為に何人の人が苦汁をなめさせられ、死んでいったことだろう。彼等の苦悲に満ちたデスマスクが、道鏡を許すな、と叫んでいる。
(彼奴に地獄に貶められた者達の為にも、決して奴に天寿を全うさせてはならん)
小助は心思にそう心服させると、計画通り事を運ぶことにした。実現はそう難しいことではないだろう。
道鏡は今茲、天に召される時を寂々と待機している毎日を送っている。今現在は逆境にあるとはいえ、青雲の志を果たし、一介の僧侶の身でありながら、日の本の大権を思うが儘に動かした過去に、満足とはいかぬまでも、一片の悔いも無いこの男は、元の学僧に戻ったつもりで、密教の研究をして、死後に備えている。無論小助のことなどとっくの昔に忘却してしまっていた。
その夜、薬師寺内の寝所に何時も通り入った道鏡は、なかなか寝付けなかったが、午前零時を過ぎ、夢寐の世界に入りかけていた。すると突然寝室の戸が開き、何者かが道鏡の胸元に刀剣を突き付けたのである。
「騒ぐな」
黒影の小助は重低音の威嚇を発した。
「何奴」
(あいつの命は今や風前の灯火だ。このまま放っておいても近い内に死ぬだろう)
仇敵の老いさらばえた現状に、小助の闘志も萎えかけている。
(世に悪の栄えた例無し、と言う。真かもしれない)
小助は奴を殺るべきか否か始めて迷罔している自分に、この十五年という歳月の比重をぶつけてみた。思えばあの悪党の為に何人の人が苦汁をなめさせられ、死んでいったことだろう。彼等の苦悲に満ちたデスマスクが、道鏡を許すな、と叫んでいる。
(彼奴に地獄に貶められた者達の為にも、決して奴に天寿を全うさせてはならん)
小助は心思にそう心服させると、計画通り事を運ぶことにした。実現はそう難しいことではないだろう。
道鏡は今茲、天に召される時を寂々と待機している毎日を送っている。今現在は逆境にあるとはいえ、青雲の志を果たし、一介の僧侶の身でありながら、日の本の大権を思うが儘に動かした過去に、満足とはいかぬまでも、一片の悔いも無いこの男は、元の学僧に戻ったつもりで、密教の研究をして、死後に備えている。無論小助のことなどとっくの昔に忘却してしまっていた。
その夜、薬師寺内の寝所に何時も通り入った道鏡は、なかなか寝付けなかったが、午前零時を過ぎ、夢寐の世界に入りかけていた。すると突然寝室の戸が開き、何者かが道鏡の胸元に刀剣を突き付けたのである。
「騒ぐな」
黒影の小助は重低音の威嚇を発した。
「何奴」