唐女伝説
その日は曇天だった。夜に入ると鈴虫の清恬たる音色が、夕餉が済んで静寧としている宮中内道場を包含し、月も顔を出して、清風明月の清夜となった。傾国の美女と怪僧の初対面の夜会に相応しい夜分である。
既に待ち侘びていた道鏡の目の前に、最盛期を過ぎたとはいえ、神々しいばかりの美の化身が現出した時、滅多に嘆じないこの男、数々の都美人を経験済みの、海千山千の道鏡が、思わず唸り、暫し楊貴妃のプロポーションに釘付けとなってしまった。
(いやさ、これが人間であろうか)
道鏡が絶句して立ち尽くしているので、道山が致し方なく、楊貴妃を上座に導いた。
(道鏡め、病気がでねばよいが)
道鏡の好色を知っている道山は、胸中苦笑いを噛み殺している。
楊貴妃は緑色の上衣に桃色の領巾、黄色の帯紐、灰色の裙というごく普通の装束であったが、道鏡の切れ長の瞳には天女ではないか、とさえ思える出立ちだった。部屋の入り口に控えた小助など全く目に入らなかった。
楊貴妃が上座に着座すると共に、オレンジと群青の僧衣できめている道鏡は仰々しく平伏し、
「この度は遙々唐の国より御出くださりまして真の光栄に存じます。拙僧は、今日より楊貴妃様の為に、粉骨砕身努力致してお守りし、安禄山の乱が治まったならば、必ずや玄宗皇帝閣下の許に楊貴妃様をお返しいたす所存に御座います」
と宣言した。小助が何時の間にか楊貴妃の傍らに端座し、道鏡の力強い明言を筆訳して伝えると、楊貴妃は少女の如き笑貌になり、
「有難う」
と日本語で応答した。小助は楊貴妃の安堵の声と表情に、
(お連れしてよかった)
と安和すると同時に、自分にはない権力というものを持っている道鏡に、軽い嫉妬心を感じ、
(いかん。これでいい)
と、自分に言い聞かせている。小助は青色の平服に身を包み、楊貴妃に礼服を着せてあげる事もできない漁夫にすぎない。
「では、取り敢えず楊貴妃様には、拙僧の邸宅に寄宿していただくことにしてもらえますまいか」
道鏡の申し出に、楊貴妃は快く応諾し、小助にも一緒に寄宿するよう促した。併し小助は、後は道鏡と道山に楊貴妃のことを委任して、帰国することに決めた。
既に待ち侘びていた道鏡の目の前に、最盛期を過ぎたとはいえ、神々しいばかりの美の化身が現出した時、滅多に嘆じないこの男、数々の都美人を経験済みの、海千山千の道鏡が、思わず唸り、暫し楊貴妃のプロポーションに釘付けとなってしまった。
(いやさ、これが人間であろうか)
道鏡が絶句して立ち尽くしているので、道山が致し方なく、楊貴妃を上座に導いた。
(道鏡め、病気がでねばよいが)
道鏡の好色を知っている道山は、胸中苦笑いを噛み殺している。
楊貴妃は緑色の上衣に桃色の領巾、黄色の帯紐、灰色の裙というごく普通の装束であったが、道鏡の切れ長の瞳には天女ではないか、とさえ思える出立ちだった。部屋の入り口に控えた小助など全く目に入らなかった。
楊貴妃が上座に着座すると共に、オレンジと群青の僧衣できめている道鏡は仰々しく平伏し、
「この度は遙々唐の国より御出くださりまして真の光栄に存じます。拙僧は、今日より楊貴妃様の為に、粉骨砕身努力致してお守りし、安禄山の乱が治まったならば、必ずや玄宗皇帝閣下の許に楊貴妃様をお返しいたす所存に御座います」
と宣言した。小助が何時の間にか楊貴妃の傍らに端座し、道鏡の力強い明言を筆訳して伝えると、楊貴妃は少女の如き笑貌になり、
「有難う」
と日本語で応答した。小助は楊貴妃の安堵の声と表情に、
(お連れしてよかった)
と安和すると同時に、自分にはない権力というものを持っている道鏡に、軽い嫉妬心を感じ、
(いかん。これでいい)
と、自分に言い聞かせている。小助は青色の平服に身を包み、楊貴妃に礼服を着せてあげる事もできない漁夫にすぎない。
「では、取り敢えず楊貴妃様には、拙僧の邸宅に寄宿していただくことにしてもらえますまいか」
道鏡の申し出に、楊貴妃は快く応諾し、小助にも一緒に寄宿するよう促した。併し小助は、後は道鏡と道山に楊貴妃のことを委任して、帰国することに決めた。