剣と日輪
仮面の告白編大蔵省
 大蔵省内で公威は、
「筆達者な新人」
 という評判であった。そこで早速、国民貯蓄振興大会に於ける来栖赳夫蔵相の演説草稿を書くよう下命された。公威は、変わっている。小説を閣筆(かくひつ)する際は、豊饒(ほうじょう)な語彙(ごい)を慎重(しんちょう)に幾(き)何学(かがく)的に組立てて、鮮(せん)浄(じょう)な彫像(ちょうぞう)を披瀝(ひれき)してみせるのに、仕事場の作文は何故か稚拙で、非常識な位ユーモアたっぷりだった。
「笠置シヅ子さんの華やかなアトラクションの前に、私のようなハゲ頭が演説をしてまことに艶消しでありますが」
(安藤武著未知谷刊三島由紀夫「日録」より)

 という公威の創案は、課長に大幅に添削(てんさく)され、
「君は、本当に小説を書いているのか」
 と貶(けな)される始末である。
「僕の文章は、大蔵省では通じない」
 公威はそう家眷(かけん)にこぼして、自らを慰恤(いじゅつ)したのだった。
 公威は畏敬(いけい)する森鴎外と、同じ道程を歩んでいた。帰宅は午後九時乃至十時で、夜中に文筆活動に勤(いそ)しむ。当然睡眠時間は四時間前後となり、公威の微弱な体力では何れ限界が訪れるのは、瞭然(りょうぜん)としていた。
 そんな切磋琢磨(せっさたくま)の時(じ)辰(しん)の最中、六月十三日に、太宰が愛人山崎富栄と入水(じゅすい)自殺を遂げる、という記事が紙面を飾った。公威は、
「やったか」
 と太宰の俤(おもかげ)を想察(そうさつ)した。太宰の自尽(じじん)を、
「文学に殉じた」
 とは想到(そうとう)できない。

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