剣と日輪
 パルテノン神殿見学後、ランチ前の二時間を、公威は春風に頬(ほお)を撫(な)でられながら、ディオソニス劇場の大理石上に居座った。紀元前六世紀に建造され、紀元前一世紀に改築されたギリシア最古の劇場は、無論遺跡(いせき)と化していた。一万五千人の収容スペースがあったというシアターに立つと、公威には古代ギリシア人の栄華(えいが)が偲(しの)ばれ、ギリシア悲劇の一幕が浮かんでは消えるのだった。
 午餐(ごさん)後、公威は一時間叢(くさむら)に腰を降ろし、飽くことなくゼウス神殿に見惚(みと)れていた。紀元前六世紀に着工し、紀元後二世紀に落成したという神々の王の神殿は、十数本の列柱が残っているだけであった。一0四本の柱に支えられていた荘厳(そうごん)さは無くしてしまったが、それでも往時(おうじ)を連想させるには充分であった。
 ギリシャは公威の知的探求心を満腹させ、哲人ソクラテスが唱えた、
「知徳(ちとく)合一(ごういつ)説」
 こそ目指すべき境地(きょうち)なのだ、と知得(ちとく)したのだった。
 四月三十日公威は、イタリアに入国した。ローマではコロセウムや美術館巡り、オペラに明け暮れた。公威が特に魄(はく)を抉(えぐ)られたのは、パラッオ・コンセルヴァトーリにあった、
「聖セバスチャン」
 だった。
 虐(しいた)げられ、矢が突き刺さったセバスチャンの裸身(らしん)は、
「美」
 の化身(けしん)だった。
 公威はこの殉教(じゅんきょう)図に、魅了(みりょう)されたのだろう。後年自らモデルとなって、篠山紀信撮影の、
「聖セバスチャンの殉教」
 という写真を残している。
 公威が帰国したのは、五月十日だった。五ヶ月足らずの公威の世界紀行は、十月五日に朝日新聞社より公刊された、
「アポロの杯」
 に集約(しゅうやく)され、日の目を見るのである。
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