剣と日輪
 公威は自己満足しながら、夜中に悦(えつ)に入ったりした。
 十二月になると、海軍兵学校の体操教官だったという、鈴木智雄と公威は面識(めんしき)を得た。侠客(きょうかく)吉良常や日本共産党幹部野坂参三とも親交があるというこの磊落(らいらく)な中年は、独断に満ちていた。玉利と同様、発足間もない日本ボディビル協会の常任理事でありながら、舶来(はくらい)のボディビルの理(り)義(ぎ)を否定していた。
「ボディビルを、過信してはいけない。ボディビルは万能ではなく、筋肉の硬直(こうちょく)というマイナス面を持っている。ボディビルを今後も続けるなら、柔軟体操を併行(へいこう)して行う必要がある。昔軍事教練でやっていた海軍体操が、一番筋肉を解(ほぐ)すのに適している、と言うのが、私の持論だ」
 鈴木は自信満々で公威に、そう説いた。
 昭和二十三年蘭印セレベス島(今のインドネシア、スラウエン島)に於いて、オランダ軍に処刑された堀内豊秋海軍大佐が考案したという海軍体操は、昭和十五年に正式に海軍に採用されたものである。デンマーク体操を元にしており、公威は戦時中散々やらされたものだ。
 鈴木は昭和三十一年三月自由ヶ丘にボディビルジムを開いた。公威は週二回其処(そこ)へ通い、日々のバーベルで硬化したマッスルを柔らかくし、又鍛え直す、という練磨(れんま)に明け暮れたのだった。
 そうして一年が経った。この間公威は戯曲、
「白蟻の巣」
 により、新潮社第二回岸田演劇賞を受賞、昭和三十一年年頭から、
「金閣寺」
 を、
「新潮」
 に連載した。
 昭和二十五年に起きた金閣寺放火事件をモチーフにした、
「金閣寺」
 は、
「美への憬(あこが)れと嫉(しつ)念(ねん)、反逆」
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