剣と日輪
奔馬編ノーベル賞
 十月十七日木曜午後七時過ぎ。公威はある発表を毎日新聞社社屋の一室で、待宵(まつよい)していた。文学者三島由紀夫にとって、最終目標ともいうべき光栄が、北欧スウエーデンから打電されるかもしれない特別な宵だった。公威が初めてノーベル文学賞の候補に挙げられたのは昭和四十年、四十歳の秋である。それから毎年公威は候補者として、鈴虫が鳴く季節になるとマスコミから、
「愈々日本人初のノーベル賞作家誕生か」
 と騒がれてきた。毎年公威は落選の憂目を見てきたのであるが、
「今年こそ三島由紀夫が受賞するのではないか」
 という憶測は、今や日本文化界の常識になっていた。
 ただネックは公威が若過ぎる事だった。受賞者の最年少はイギリス人キップリングの四十一歳であるが、四十代の受賞者というのは僅かに四人、然も全員欧米人だった。欧米以外ではインドのタゴールが五十二歳で受賞しているが、受賞時タゴールの国籍はイギリスだった。欧米以外の国の人間が四十三歳という史上二番目の若輩で受賞するとは考えられなかった。
 十一年前ニューヨークのブロードウエイ進出を日本人として初めて試みた時分の、白人社会の陰湿な抵抗を経験している公威は、そう解脱(かいだつ)していたが、周囲に持ち上げられ、のこのこ出掛けて来てしまっていた。頼まれると厭といえない性分なのである。
 記者達の、
「世界のミシマの誕生だ」
 という浮かれ声が交わされる中、午後七時三十分テレックスルームから記者が現れた。記者は気の毒そうに公威に頭礼し、
「ノーベル文学賞は、川端康成先生だった」
 と告示した。
 日本人初受賞のどよめきと、落胆の溜息が混和し、やがて公威の、
「それはよかった。早速祝福の電話をしたい」
 という発言で沈静した。室内には公威と親交篤いNHK記者で宇和島伊達家の末裔である伊達宗克、新潮社の新田敞(ひろし)等もいた。
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