剣と日輪
 有田は公威と出版元の新潮社を、
「人権侵害である」
 として、昭和三十六年三月に東京地方裁判所に告訴した。有田は損害賠償百万円と謝罪広告を請求したが、昭和三十九年九月に下された判決は、公威、新潮社側に八十万円の慰謝料を支払えというものだった。公威側は東京高等裁判所に控訴して争ったが、昭和四十年三月に有田が病死したので、翌年十一月和解となった。
 この裁判は、
「プライバシー裁判」
 と世間では通称され、
「プライバシー」
 という単語を国民間に普及させた事例となった。
 スウエーデンの自称日本通の文学者は、
「宴のあと」
 の主人公が社会主義政党の候補者であるところから、
「ミシマは共産主義者に違いない」
 と類推してしまった。
 彼のアドバイスを選考委員会は鵜呑みにし、
「伊豆の踊り子」
 や、
「雪国」
 で純麗な日本を描写してみせた川端康成が選出されたのであった。公威にとって、不幸としか言い様の無い選考経緯だった。
 公威は痩せ衰えた老作家の晩年に一躍世界的スポットが当てられたのを祝賀し、翌日放映されたNHKの番組、
「川端康成氏を囲んで」
 にも、伊藤整等と出演し、恩師の晴れ姿を祝してやまなかった。川端は恐縮しながらも、六十九歳の老骨に降って沸いたような僥倖(ぎょうこう)を責任と受け止め、訪問客とマスコミの接待に追われていたのだった。
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