剣と日輪
 その多忙ぶりに、公威は初対面の日を回想していた。
(あの時も、この家で、川端さんは多事に忙殺されていた。俺にもこのような日が来るだろうか、とあの時羨望したものだ)
 あれから二十年の歳月が流れた。今又一歩先を進む川端に、公威は将来その日が来るであろうか、とは想起しない。後何十年か後に自分が生きているとは、想到(そうとう)できなかったのである。
(俺の命は後二三年だろう)
 公威はそう自可(じか)していた。そう踏まえると、川端の受賞が無性に心に響いてくる。
「川端さんがノーベル文学賞に輝かれたことは、日本文学が遂に世界に容認されたという証(あかし)である。私は繊細でたおやでいて、毅然たる美こそ大和心、日本文化である、と理解している。その意味で、川端さんの作品が日本文学の代表として世界に賞賛されたことは、良識にとんだ最良の選考であった、と思う。二十年に渡り川端さんと御交友いただき、今日栄冠に輝く氏を祝福できることは、私個人にとっても無上の喜びであり、歓喜の至りです」
 公威はそうコメントし、
「世界の川端」
 に惜しみない礼賛(らいさん)を送ったのだった。

 十月二十一日の、
「国際反戦デー」
 に向け、共産主義・無政府主義者の動向は過激化してきていた。公威は山本一佐と談合し、十・二一を楯の会隊員の実地訓練の日とする手筈を整えた。
 山本一佐は、
「自衛隊調査学校の学生、それに楯の会隊員に対する絶好の実地教育の場になる」
 と心して、自宅に友人の中村と公威を招き、指導方法について協議を重ねた。その結果公威は当日毎日新聞社の、
「サンデー毎日」
 記者という肩書で取材活動に従事する予定になった。公威の身をガードすべく、山本一佐の部下が身辺に密着する。公威は外務省幹部になっていた千之に協力を求め、総理官邸への出入自由という身になった。
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