剣と日輪
四、
なぜ我々は共産主義に反対するか?第一にそれは、われわれの国体、すなわち文化・伝統と絶対に相容れず、論理的に天皇の御存在と相容れないからであり、しかも天皇は、われわれの歴史的連続性・文化的統一性・民族的同一性の、他にかけがえのない唯一の象徴だからである。第二に、われわれは、言論の自由をまもるために共産主義に反対する。我々は日本共産党の民族主義的仮面、すなわち、日本的方式による世界最初の、言論自由を保障する人間主義的社会主義という幻影を破砕するであろう。この政治体制上の実験は(もしそれが言葉どおりに行われるとしても)、成功すれば忽ち一党独裁の恐るべき本質をあらわすことは明らかだからである。
五、
戦いはただ一回であるべきであり、生死を賭けた戦いでなくてはならぬ。生死を賭けた戦いのあとに、判定を下すものは歴史であり、精神の価値であり、道義性である。われわれの反革命は、水際に敵を要撃することであり、その水際は日本の国土の水際ではなく、われわれ一人一人の日本魂の防波堤に在る。民衆的讒謗(ざんぼう)、嘲弄、挑発をものともせず、かれらの蝕(むしばまれ)た日本精神を覚醒させるべく、一死以てこれに当らねばならぬ。われわれは日本の美の伝統を体現する者である。
 公威は自らの反革命闘争が、民衆の支持を得ずに罵詈雑言を以て葬り去られるであろうと、口述筆記、
「反革命宣言補注」
 の中で語っている。
「われわれは先見によって動くのであり、あくまでも少数者の原理によって動くのである。したがって反革命は外面的には華々しいものにはなり得ないかもしれないが、革命状況を厳密に見張って、もし革命勢力と行政権とが直結しそうな時点をねらって、その瞬間に打破粉砕するものでなければならない。このためには民衆の支持をあてにすることはできないであろう。如何なる民衆の罵詈讒謗も浴びる覚悟をしなければならない。その形は、場合によっては人民裁判的な攻撃によって、民衆になぐり殺されることもあるかもしれない。しかし、われわれは民衆の現在ただいまの状況における安価な感傷的盲目的な心理に阿諛追従して、それを背景にし、あるいは後楯にして行動するのではないから、当然のことである」
(三島由紀夫と楯の会事件より)




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