剣と日輪
奔馬編脱会
楯の会の活動は、平生は毎月一日に行われる会合のみ。だから祖国防衛隊との両立は、然程苦にはならない。二月には小川、鶴見、田中の三名が楯の会に入隊を許可され、三月一日から二十九日までの間、陸上自衛隊富士学校滝ヶ原分とん地で体験入隊に参加する運びとなった。
二月十九日から二十三日迄、公威を筆頭に、二十九名の楯の会隊員が都内寺院で合宿を行った。
「地域研究」
「都市遊撃の研究」
の講義、加えて自衛隊朝霞基地周辺の偵察、並びに基地潜入の実地訓練も行われた。
寺院には暖房器具が無い。各自持参のスリーピングバッグに包まって、如月(きさらぎ)の夜を過ごさねばならないのである。食糧も自給自足である。外出禁止、整理整頓、寺院内立入禁止区域の順守、娑婆との連絡は遮断され、酒も煙草も駄目、水道や電気についても規制されていた。
四名一グループが七組編成され、山本一佐が見込んだ情報員六名が教官として、楯の会隊員をみっちり扱(しご)いた。
隊員にとって外界との接点はグループ毎に出掛ける銭湯であったが、公威は一回も銭湯へ行かなかった。自分だけが作家という職業に就いているので、訓練終了後エアコンのきいた教官室で原稿を執筆し、就寝しているからだった。謂わばたった一つの社会との交わりを自ら放棄することで、隊員達と苦難を少しでも平等に分ち合いたかったのだ。公威は四日間午前一時に寝て、午前六時に起床する訓練の日々を送った。瑤子にも居場所は知らせずに。
必勝達楯の会訓練生の一日は、午前八時の体操から始まり、朝食の調理、缶詰がオカズの朝飯へと続く。九時から昼食を挟んで日没迄講義。夕食後反省会で一日は締め括られる。
必勝が何時の間にか隊員達の真芯になりかけていた。くたくたになった隊員の中にあって必勝の底抜けの快漢振りが、際立つ様になってきていたのだ。
二月二十一日午前の講義は白熱し、大幅に延長された。中食用に弱火でトロトロに煮込まれていたシチューはドロドロになり、板敷の本堂に座してスプーンをとろうとした訓練参加者達の手を、止めさせた。
二月十九日から二十三日迄、公威を筆頭に、二十九名の楯の会隊員が都内寺院で合宿を行った。
「地域研究」
「都市遊撃の研究」
の講義、加えて自衛隊朝霞基地周辺の偵察、並びに基地潜入の実地訓練も行われた。
寺院には暖房器具が無い。各自持参のスリーピングバッグに包まって、如月(きさらぎ)の夜を過ごさねばならないのである。食糧も自給自足である。外出禁止、整理整頓、寺院内立入禁止区域の順守、娑婆との連絡は遮断され、酒も煙草も駄目、水道や電気についても規制されていた。
四名一グループが七組編成され、山本一佐が見込んだ情報員六名が教官として、楯の会隊員をみっちり扱(しご)いた。
隊員にとって外界との接点はグループ毎に出掛ける銭湯であったが、公威は一回も銭湯へ行かなかった。自分だけが作家という職業に就いているので、訓練終了後エアコンのきいた教官室で原稿を執筆し、就寝しているからだった。謂わばたった一つの社会との交わりを自ら放棄することで、隊員達と苦難を少しでも平等に分ち合いたかったのだ。公威は四日間午前一時に寝て、午前六時に起床する訓練の日々を送った。瑤子にも居場所は知らせずに。
必勝達楯の会訓練生の一日は、午前八時の体操から始まり、朝食の調理、缶詰がオカズの朝飯へと続く。九時から昼食を挟んで日没迄講義。夕食後反省会で一日は締め括られる。
必勝が何時の間にか隊員達の真芯になりかけていた。くたくたになった隊員の中にあって必勝の底抜けの快漢振りが、際立つ様になってきていたのだ。
二月二十一日午前の講義は白熱し、大幅に延長された。中食用に弱火でトロトロに煮込まれていたシチューはドロドロになり、板敷の本堂に座してスプーンをとろうとした訓練参加者達の手を、止めさせた。