剣と日輪
てはいなかったのだ。
「赤い嵐」
の吹荒れた六十年代は終ったのだ。
「七十年安保で斬り死にする」
と宣言していた公威は、活躍の場を与えられなかったのである。
公威は六月三十日に、公正証書による正式な遺言状を書き上げた。河和松雄弁護士が、遺言執行人として立ち会った。遺言状作成理由を公威は、
「交通事故の増加により、自分も何時死ぬか分からないから」
と河和弁護士を紹介し、遺言状の手解きを受けた斉藤直一弁護士に述べている。本当は蹶起(けっき)後、母倭文重に先立つ不孝を詫び、出世作、
「仮面の告白」
と、倭文重がお気に入りだった、
「愛の渇き」
の著作権を生母に贈って、育成してくれた礼をしたかったのである。両作品の著作権は遺言通り、公威の死後倭文重に移譲することになる。
七月五日日曜日三回目の、
「打ち合わせ」
が山の上ホテル二○七号室で行われ、
「第三十二普通科連隊長を監禁し、自衛官にクーデターを呼掛けるのは十一月の楯の会例会の日とする」
と一応定まった。
小賀が、
「ヘリポートに於ける訓練の機会毎に、基地内を探索し、配置図を拵(こしら)えつつある」
と報告すると公威は、
「気が利くな」
「赤い嵐」
の吹荒れた六十年代は終ったのだ。
「七十年安保で斬り死にする」
と宣言していた公威は、活躍の場を与えられなかったのである。
公威は六月三十日に、公正証書による正式な遺言状を書き上げた。河和松雄弁護士が、遺言執行人として立ち会った。遺言状作成理由を公威は、
「交通事故の増加により、自分も何時死ぬか分からないから」
と河和弁護士を紹介し、遺言状の手解きを受けた斉藤直一弁護士に述べている。本当は蹶起(けっき)後、母倭文重に先立つ不孝を詫び、出世作、
「仮面の告白」
と、倭文重がお気に入りだった、
「愛の渇き」
の著作権を生母に贈って、育成してくれた礼をしたかったのである。両作品の著作権は遺言通り、公威の死後倭文重に移譲することになる。
七月五日日曜日三回目の、
「打ち合わせ」
が山の上ホテル二○七号室で行われ、
「第三十二普通科連隊長を監禁し、自衛官にクーデターを呼掛けるのは十一月の楯の会例会の日とする」
と一応定まった。
小賀が、
「ヘリポートに於ける訓練の機会毎に、基地内を探索し、配置図を拵(こしら)えつつある」
と報告すると公威は、
「気が利くな」