剣と日輪
 この頃公威は楯の会隊員に、
「野垂死(のたれじに)の道」
 を説いていた。幕末の思想家吉田松陰が、計図した老中間部詮勝暗殺計画に反対する弟子達に投げかけた、
「僕は忠義をするつもり。諸友は功業を成すつもり」
 という高言を引用し、
「共産主義・無政府主義者の様に大衆を幻惑し、その支持を当てにするような小手先の活動ではどうにもならない。我々は民族の歴史的視点から、行動しなければならないのである。日本の未来の為に、例え狂人と罵られようと、やるべきことはやらねばならないのだ」
 と力説していたのである。恐らく全く評価され得ないであろう自分の犬死に対する並々ならぬ覚(かく)剣(けん)が、公威を厚いベールに包み隠さんとしていた。
 保利官房長官に公威が、国防に関して意見を求められらたのは、七月上旬である。三回に渡り祖国防衛政策を具申した公威は、その切実な声が佐藤首相に届かん事を願った。憲法九条の条項を全削除し、
「日本国軍隊は、天皇を中心とするわが国体、その歴史、伝統、文化を護持することを本義とし、国際社会の信倚(しんい)と日本国民の信頼の上に建軍される」
(三島由紀夫と楯の会事件より)
 
 という条項を盛り込むべきだ、と公威は注進した。 
 日本復活の烽火を上げるようなものであったが、中曽根防衛長官は、
「アジア諸国の反発」
 に怯え、佐藤首相に公威の進言を上申しなかった。
「自民党は所詮そんなもの。政権維持のことしか頭に無く、信条の欠片(かけら)もない」
 と公威は政治に望みを絶ち、一撃の非合法活動に全てを託したのである。
「十年、二十年は理解されずとも、何時かは必ず本当の華になる。百年後の評価を待って今は散るのみ」
 公威は七夕のサンケイ新聞の夕刊に、
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