剣と日輪
美津子の同級生六人も、チフスを患(わずら)っていた。井戸水が病因(びょういん)と判明すると梓は激昂(げっこう)し、
「学校の先生は何をやっとるのか」
と担任の教諭に難詰(なんきつ)したが、教師は平謝(ひらあやま)りするだけであった。
美津子の容態(ようだい)は好転せず、公威は病室にテキストとノートを持参して、看病の合間に試験勉強に励んだ。薄汚い床に腰を据え、時折名も知らぬ羽虫等の闖入者(ちんにゅうしゃ)を排撃した。病院といっても極めて不衛生で、公威は、
「もっとましな病院へ入れるべきだ」
と主張した。
梓や倭文重、千之も同感であったが、終戦直後の物資(ぶっし)窮乏(きゅうぼう)の頃であり、他の病院も似た様なものであった。
公威は美津子を、何としても救出したかった。ベッドの側の床に座し、勉強と看護に余念の無い公威は、
「兄妹愛」
の肖像(しょうぞう)そのものであった。公威が、
「吸(すい)呑(の)み」
で水を飲ませてやると、美津子は、
「ごくり」
と喉頭を鳴らし、瞳を閉じたまま、聞き取れぬほどの声音で、
「お・に・い・ちゃ・ま、あ・り・が・と・う」
とお礼を言った。兄妹の対話はそれだけであった。公威は中腰で美津子に水をやりながら、余りにも無残な、
「神の仕打ち」
を恨んだ。
(代わりに私の命を捧げます。だから妹を連れて行かないでください)
公威の必死の祈願も看病も、千之の日に二度の自宅と病院の間の食糧輸送も、両親の血の滲む様な尽力も報われなかった。美津子は十月二十三日、十八歳で昇天したのである。平岡家にとって、悲劇の戦後の端緒となった悔み切れない悪夢だった。
「学校の先生は何をやっとるのか」
と担任の教諭に難詰(なんきつ)したが、教師は平謝(ひらあやま)りするだけであった。
美津子の容態(ようだい)は好転せず、公威は病室にテキストとノートを持参して、看病の合間に試験勉強に励んだ。薄汚い床に腰を据え、時折名も知らぬ羽虫等の闖入者(ちんにゅうしゃ)を排撃した。病院といっても極めて不衛生で、公威は、
「もっとましな病院へ入れるべきだ」
と主張した。
梓や倭文重、千之も同感であったが、終戦直後の物資(ぶっし)窮乏(きゅうぼう)の頃であり、他の病院も似た様なものであった。
公威は美津子を、何としても救出したかった。ベッドの側の床に座し、勉強と看護に余念の無い公威は、
「兄妹愛」
の肖像(しょうぞう)そのものであった。公威が、
「吸(すい)呑(の)み」
で水を飲ませてやると、美津子は、
「ごくり」
と喉頭を鳴らし、瞳を閉じたまま、聞き取れぬほどの声音で、
「お・に・い・ちゃ・ま、あ・り・が・と・う」
とお礼を言った。兄妹の対話はそれだけであった。公威は中腰で美津子に水をやりながら、余りにも無残な、
「神の仕打ち」
を恨んだ。
(代わりに私の命を捧げます。だから妹を連れて行かないでください)
公威の必死の祈願も看病も、千之の日に二度の自宅と病院の間の食糧輸送も、両親の血の滲む様な尽力も報われなかった。美津子は十月二十三日、十八歳で昇天したのである。平岡家にとって、悲劇の戦後の端緒となった悔み切れない悪夢だった。