剣と日輪
惑溺(わくでき)していった。
 終電の関係により宴半ばで、公威は帰り道が同方向である中村稔と共に中座した。太宰は公威が余程気になっていたのだろう。酒を呷(あお)る編集者を横目に矢代から、
「平岡君は戦時中短編集を刊行し、雑誌に数編を発表している。川端康成とも懇意である」
 と聞及ぶと、舌打ちをした。
「何でそんな重要なことを知らせてくれなかったんだ。知ってれば、あんな邪険に扱わなかったし、文学論を戦わす事もできたのに」
 太宰は口惜しそうに、文学テロリストとの不本意な瞥観を残念がった。
 公威と中村は寡黙のまま、渋谷駅で下車し、ハチ公口から、凍てつく駅外に立った。人通りは皆無である。
「じゃ」
 二人が家路を辿ろうとすると、ひょろりとした五十代のコートを着込んだジェントルマンが近寄ってきた。
「ああ」
 公威は無感動に、感嘆の声を上げた。
「おかえり」
 父子は、中村に軽い会釈をすると、タクシーに乗り込んだ。
 たった独り深夜の渋谷駅前に残留している中村は、急に侘しくなった。公威は、
「何時に帰る」
 と、平岡家に連絡などしていない。
(あの父親は、何時帰るか分からない大学生の息子を、ずっと待っていたのか)
 中村は偏愛(へんあい)と言っていい親子愛の深(しん)心(じん)に、甘酸(かんさん)たる寒気(さむけ)を覚え、ジャンパーの襟(えり)を立てた。
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