僕たちの時間(とき)




 声楽室に部員が誰も居なくなった頃を見計らって、僕は再びピアノの前に座った。

 ポン…と指で鍵盤を弾(はじ)いてみる。

 それはガランとした広い声楽室の中、やけに大きく響き渡って。

 ただ1人きりであるゆえの静寂と…やおら湧き上がってきた少しばかりの寂寥感を、大きく煽って。

 覚えた感情ごと振り払うように、そのままガムシャラに、僕は鍵盤の上で指を走らせる。

 ただガムシャラになって弾(ひ)くことに没頭する。

 ――そうすれば、その間だけ何もかもを忘れられるから。

 今しがた覚えたばかりの感情も、他のどの感情も、そこに在った意識さえも消える。

 何もかも忘れて…“自分”という存在すらも忘れて。

 まるで自分が今なにをしているのかさえ判らなくなるような……そんな感覚。

 弾いている間だけ、僕の身体からポッカリと“僕”だけが居なくなってしまったみたいに。

 自分の何もかもが消え、だから僕は、僕じゃなくなる。

“ピアノを弾く僕”という、普段とは違う自分になる。

 ――その感覚は……でも僕にとって、何故だろう、決して嫌なことではなかった。


 合唱部に入部してから……こうして放課後に1人でピアノを弾くようになってから……もう1年ほどになるだろうか―――。


 これは、諦めることを覚えた僕が貫き通した初めての“ワガママ”だった。

 そもそもの始まりは、合唱部の顧問である音楽教諭の諸橋(もろはし)先生が、僕のピアノ歴を知り、『伴奏者として入部してくれないか』と持ちかけてきたこと。

 当然、母には反対された。

『そんな時間があるのなら、自分のピアノの練習をなさい』、と。

 それを『どうしても』と押したのは僕だ。

『ピアノを弾いていることには変わりないじゃないか』、と。

 それに合わせて、ピアノを習いに通っていた時間も、僕から先生に直接お願いして、部活を終えてからでも間に合う遅い時間へとズラしてもらった。

 母は、そこでようやく折れたのだ。

『そこまでしてやりたいのなら、好きになさい』、と。
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