僕たちの時間(とき)
*
声楽室に部員が誰も居なくなった頃を見計らって、僕は再びピアノの前に座った。
ポン…と指で鍵盤を弾(はじ)いてみる。
それはガランとした広い声楽室の中、やけに大きく響き渡って。
ただ1人きりであるゆえの静寂と…やおら湧き上がってきた少しばかりの寂寥感を、大きく煽って。
覚えた感情ごと振り払うように、そのままガムシャラに、僕は鍵盤の上で指を走らせる。
ただガムシャラになって弾(ひ)くことに没頭する。
――そうすれば、その間だけ何もかもを忘れられるから。
今しがた覚えたばかりの感情も、他のどの感情も、そこに在った意識さえも消える。
何もかも忘れて…“自分”という存在すらも忘れて。
まるで自分が今なにをしているのかさえ判らなくなるような……そんな感覚。
弾いている間だけ、僕の身体からポッカリと“僕”だけが居なくなってしまったみたいに。
自分の何もかもが消え、だから僕は、僕じゃなくなる。
“ピアノを弾く僕”という、普段とは違う自分になる。
――その感覚は……でも僕にとって、何故だろう、決して嫌なことではなかった。
合唱部に入部してから……こうして放課後に1人でピアノを弾くようになってから……もう1年ほどになるだろうか―――。
これは、諦めることを覚えた僕が貫き通した初めての“ワガママ”だった。
そもそもの始まりは、合唱部の顧問である音楽教諭の諸橋(もろはし)先生が、僕のピアノ歴を知り、『伴奏者として入部してくれないか』と持ちかけてきたこと。
当然、母には反対された。
『そんな時間があるのなら、自分のピアノの練習をなさい』、と。
それを『どうしても』と押したのは僕だ。
『ピアノを弾いていることには変わりないじゃないか』、と。
それに合わせて、ピアノを習いに通っていた時間も、僕から先生に直接お願いして、部活を終えてからでも間に合う遅い時間へとズラしてもらった。
母は、そこでようやく折れたのだ。
『そこまでしてやりたいのなら、好きになさい』、と。
声楽室に部員が誰も居なくなった頃を見計らって、僕は再びピアノの前に座った。
ポン…と指で鍵盤を弾(はじ)いてみる。
それはガランとした広い声楽室の中、やけに大きく響き渡って。
ただ1人きりであるゆえの静寂と…やおら湧き上がってきた少しばかりの寂寥感を、大きく煽って。
覚えた感情ごと振り払うように、そのままガムシャラに、僕は鍵盤の上で指を走らせる。
ただガムシャラになって弾(ひ)くことに没頭する。
――そうすれば、その間だけ何もかもを忘れられるから。
今しがた覚えたばかりの感情も、他のどの感情も、そこに在った意識さえも消える。
何もかも忘れて…“自分”という存在すらも忘れて。
まるで自分が今なにをしているのかさえ判らなくなるような……そんな感覚。
弾いている間だけ、僕の身体からポッカリと“僕”だけが居なくなってしまったみたいに。
自分の何もかもが消え、だから僕は、僕じゃなくなる。
“ピアノを弾く僕”という、普段とは違う自分になる。
――その感覚は……でも僕にとって、何故だろう、決して嫌なことではなかった。
合唱部に入部してから……こうして放課後に1人でピアノを弾くようになってから……もう1年ほどになるだろうか―――。
これは、諦めることを覚えた僕が貫き通した初めての“ワガママ”だった。
そもそもの始まりは、合唱部の顧問である音楽教諭の諸橋(もろはし)先生が、僕のピアノ歴を知り、『伴奏者として入部してくれないか』と持ちかけてきたこと。
当然、母には反対された。
『そんな時間があるのなら、自分のピアノの練習をなさい』、と。
それを『どうしても』と押したのは僕だ。
『ピアノを弾いていることには変わりないじゃないか』、と。
それに合わせて、ピアノを習いに通っていた時間も、僕から先生に直接お願いして、部活を終えてからでも間に合う遅い時間へとズラしてもらった。
母は、そこでようやく折れたのだ。
『そこまでしてやりたいのなら、好きになさい』、と。