僕たちの時間(とき)
 耳は、何も意識せずとも全ての音を聞いている器官(もの)。

 そういう風に出来ているのだから、“聞こえる”ということは当たり前のことなのだ。

 そうやって聞こえる音の全てを“聞き流す”だけでは、音楽には触れることすら出来ない、ということ。

“聴こう”と音楽に向き合おうとする姿勢があってこそ初めて、自分の中に“音楽”として受け入れ留めておけるだけのキャパシティが出来るのだ。

 だから順当に考えて、僕に“驚き”と“気付き”をくれた葉山には、

 感謝こそすれ、文句を言うスジアイなど、本当は無いのかもしれない。


 しかし……とはいえ、僕にクラシック以外の音楽を聴かせるよう仕向けた葉山の“意図”には、どうしても文句を言わずにはいられない。


 葉山のコソクなところは、必ず貸してくれた音楽についての“ツッ込んだ感想”を、毎度毎度、僕に求めてくるところだった。

 それがあるから、ゆえに放課後、例によって部活が終わってから僕が1人で声楽室に居る時間を見計らっては、

 毎日毎日3人がそれぞれ押しかけてくることにもなっているのだ。

 また、それがあるから僕も、“聴いたフリ”や“借りたら借りっぱなし”を、することが出来ない。

 イイワケが出来ない。


『なあ、昨日貸したヤツどうだった?』

『えっと……ちょっとイマイチだったかな……』

『へえ? どこらへんが「イマイチ」?』

『「どこらへん」も何も……全体的に音がガチャガチャうるさすぎるし、歌が何て言ってるか分からないし……』

『おまえ、昨日も同じこと言ったよな? じゃあ、一昨日貸したヤツと比べて、どうだったんだよ?』

『…………』

『つまり、マトモに聴いてない、ってコトだな? ――よし、もう一晩ジックリ聴いてこい!』

『ええええっっ……!?』


 おかげで、僕のピアノの練習時間が、とみに減った。

 返して言うなれば、自分の弾くべきピアノ以外のことを考えている時間が、とみに増えた。

 だからなのか、――これも葉山の思惑にまんまと嵌まってしまったようで手放しでは喜べないこと限りないのだが、

 おかげで“現代音楽”とやらを聴き分ける“耳”は、そこそこ肥えてきたような気がする。
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