僕たちの時間(とき)

5.――“heartache”

「――もうそのくらいにしておけ、サトシ」


 そんな声が聞こえたと同時……渡辺くんがハッと我に返ったのが、僕を締め上げている両手から伝わってきた。

 フと、その力が緩んで。思わず咳き込みそうになるくらい大量の空気が気管を通り抜けていくのが分かって。

 咄嗟に安堵の息を吐いた僕は、そこでようやく、すぐ目の前へと視線を移した。

 僕の襟首を掴んでいる彼の両手の上に、別の大きな片手が載せられている。


 ――それは葉山だった。


「これ以上続けたら……コイツ死ぬぜ?」

 言いながら葉山の手が、僕の襟首を掴んだまま硬直したように動かない渡辺くんの両手を、ソッと…でも半分無理矢理のように、外した。

 外されたその両手を、渡辺くんは呆然としたように見下ろして。

 おもむろに僕の方へと、ゆっくり首を廻らせる。

 まるで軋む音が聞こえてきそうなくらい、緩慢な動きで。

 見下ろした彼の視線と見上げた僕の視線とが、そのままごく自然の成り行きで、ぶつかり合った。

 その途端、彼は今にも泣き出しそうな表情を浮かべたのだ。

 ――その表情は正に、本当に傷付いた時に人間が見せる表情である、と……何故かそれを、アタマの向こう側でハッキリと、僕は、感じた。

 でも、それも一瞬のこと。

 次の瞬間には、もう彼は、まるで表情を隠すように顔を伏せて俯いていて。

「ごめん……」

 聞き取れるギリギリの小さな声で、それを呟くように告げるなり。

 やおら彼は、その場から踵を返した。

 踵を返したそのまま、駆け出して声楽室から飛び出してゆく。

 その彼の背中を見送っていても、なお……まだ半分、何が起こったのかが分からなくて、自分がどうしたらいいのかが分からなくて……僕はピクリとも動けず、ただただ目を瞠って呆然とその場に座り続けていることしか、出来ずにいた。
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