焼き芋焼けた
「岡本なら、少し前に上がりました」
 君の所在を聞いた私に彼女から返って来た答えは、予想した通りのものでした。
 私は酷く落胆しました。君が帰ってしまったことにではありません。それは言うまでもなく、私自身の腑甲斐なさにです。
 僅か数十メートル。視力の低い私であっても、間違いなく君だと判別できる距離に君は居ました。たったそれだけの距離を歩み寄り「こんにちは」そんな風に声を掛けるだけで良かったのです。
 しかしそれだけのことが私にはできませんでした。
 私は日頃、自身にこのような躊躇は縁がないものだと思っていました。主張したいことは厳格に主張し、決意したことは実行する。それが私と言う人間だった筈です。
 しかし君のこととなると、それまでの自分とは別の人格が生まれてくるかのように、酷く小心な人間になってしまうのです。とりわけこの時に至っては、自分が何と臆病で意気地がないのかと心底情けなくなったのでした。
   
 低くなった太陽がまだ粘り強く空に張り付き湿度の高い熱を与える中、私は重い足取りで帰路へ着きました。未だ減る気配のない人波にも所々疲労の色が見て取れましたが、それは皆、充実した一日を過ごしたためのものであり、私が感じていた精神的な疲労とは異なるものなのでしょう。
 消沈の面持ちで下り電車を待つ列の最後尾から、君の勤め先の方向を呆然と眺めていると、僅かに上ずった声が私を呼びました。
「大樹君!?」
 電光掲示板が電車の接近を告げた丁度その時に聞こえたその声に振り返ると、そこには君の姿がありました。
 ほんのりと淡黄色掛かった白いワンピース姿の君は走って来たのでしょうか、黒っぽいハンドタオルで首筋の汗を抑えるように拭いながら微笑を見せていました。驚きの中に、細やかな喜びが紛れて見えました。
「出掛けてたんですか?」
 ハンドタオルを藁で編まれた小さな籠状のバックに押し込み、そんな質問を投げ掛けながら、君は私の隣に並びました。そして、まだ引かない体温と汗を誤魔化すように時折手を団扇代わりにして、顔や首筋に向けほんの気休め程度の風を送っていました。
「ええ、まあ。これから帰るところです」
 君に会いに来たのに声を掛けられず、四時間も彷徨い歩いていた等とはとても言える筈もなく、適当に言葉を濁して返答するより他にありませんでした。
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