焼き芋焼けた
形成
 母親の涙を見た日から一週間後、私は小学校の入学式を迎えました。
 パリッと糊の効いた白シャツに紺色の半ズボンとブレザーを着込み、母親の慣れない手付きでブレザーの色に合わせたネクタイを締められると、むず痒いような、それでいてどこか誇らしいような、そんな感覚を持ったものでした。
 小学校の校門へと続く桜並木からは祝福の花弁が舞い、その散った花弁で鮮やかに彩られた地面を黒いエナメル靴で踏み締める度、胸は高鳴りました。
 父親のように、正義感の強い人になろう。母親と供に校門から一歩足を踏み入れたとき、凛とした気持ちであの日の誓いをもう一度胸に刻んだことを憶えています。
   
 私はそれまで母親の仕事の都合で、保育園に通っていました。
 一方殆どの同級生達は私とは違い同じ幼稚園に通っており、既に大方の友人関係は出来上がっている状態でした。
 母親は私がそんな同級生達の中に上手く入って行けるのか、友達はできるのか、過剰気味に心配していましたが、そんな母親の不安とは裏腹に私の小学校生活は順調に始まりました。
 同級生達とは直ぐに打ち解けることができましたし、特に仲の良い友人も数人できました。先生の言い付けも確りと守りましたし、同級生同士の喧嘩等があれば勿論止めに入りました。クラスの中で何か問題が起これば、担任に声高らかに提起しました。決して要領の良い子供ではありませんでしたが、人よりも多く勉強することで、成績も優良な部類に入っていました。
 そんな私は同級生や先生方から、真面目な子と言う印象を持たれていたようです。
 二年生に上がる頃には勉強のし過ぎからか視力が低下し、眼鏡を掛けるようになりました。アニメのキャラクターによく似ているからと、親しみを込めてまるお君と言うあだ名で呼ばれ始めたのもその頃です。
 同級生や先生方から持たれた印象は私としても本意のところでしたし、そのあだ名にも特段悪い気はしていませんでした。
 私はそのキャラクターと同じく学級委員を務めていましたから、先生や同級生に用事を頼まれることが多々ありましたが、私にとってそれは喜ぶべきことでした。人の助けになることは、私の志す正義感にも結び付くことだと思っていたからです。
 その頃同級生達にとって私とは人気者と言うのとは違いましたが、確かに頼りになる必要な存在であったと自負しています。
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