亡國の孤城Ⅲ ~バリアン・紲の戦~
6.差し込む兆し、落ちる暗影
嗅ぎ慣れた臭いと混ざると、こうも酷く、何とも表現しづらい不思議な臭いになるものなのか。
この極寒の地で、母の腕の中の次に心休まる場所であった古びた暖炉からは、今夜の夕飯となる筈だったスープ…骨からこそぎ取ったカスの様な肉と痩せた野菜の切れ端で出来たそれの、香ばしい匂いが部屋中に充満していたのだが。
先程開け放った重い木戸のせいで、それらは外へ…。
一歩先に踏み出せば広がる、見飽きた銀世界の向こうへと白い尾を揺らしながら消えていく。
入れ替わるように家屋に入ってくる真っ白な粉雪は、ものの数分で傷だらけの床に集まり、あっという間に木目を白一色で覆い尽くしていく。
足元の薄く積もった雪は消えかかっている暖炉の薄明かりに照らされ、ほんのりと赤く染まったかと思えば。
ゆっくりと、這うように流れてきた血溜まりに触れて、鮮やかな…しかし何処かどす黒くも見える別の赤へと変わっていった。
嗅ぎ慣れた血の臭いが、食べ飽きたスープの匂いと混ざりあって、外に流れて行きながら一々鼻をくすぐる。
そういえば、お腹が空いていたんだった。
夕飯を食べていない。
でも、今は空腹を満たすことよりも、やりたいことがある。
ぼんやりと、少年はそれまでいた家屋を眺めて。
無我夢中で家中から集めてきた自分の荷物を背負って。
しっかり閉めろと父から怒鳴られる度に厳重に閉めていた扉を開けっ放しにしたまま、夜の銀世界に踵を返した。
事が起こってからずっとずっと握りしめていたフォークを、不意に口に運ぶ。
冷たい尖った先を舌でなぞれば、鉄の苦い味が広がって…でも、今まで食べてきた母のご飯の味が染みついているような気がして…。
「さっき嗅いだ血のスープの嫌な臭いは、ひょっとしたらこんな味なんじゃないかな…と、少年は馬鹿な事を考えながら、楽しそうに旅立ちました…とさ」
「…黙って聞いていたら、つまらない話だねえ……作り話かい?それでその少年はどうなったんだい?」
「さあ?どうなったんでしょうね?吹雪だったらすぐに死んでしまっていたかもしれませんが…」
そう言いながら薄暗い天井に向かって煙草の煙を吐き出せば、きめ細やかな女の指先がそっとパイプを掠め取り…代わりに女の艶めかしい唇が一瞬触れて、離れて行った。
ねえ、先生…と甘い声と挑発的な眼差しを向けてくる女の誘いに苦笑を漏らして。
「いつもは吹雪なのに…その夜だけは不思議と、風の無い夜だったんですよ…」
言い終えるや否や、横たわる男女の影は一つになり、静かに絡み合った。