水とコーヒー
おそらく先輩がそれまで数を刻んでいた左手を、強く優しく握りあっていた僕らの左手と右手の上に重ねたのだろう。


「終わったよ」

それは目を開けていいという意味を含んだ合図だった。どれだけそうしていたのかはわからないが、現実世界は深夜のファミレスで、先輩はさっきと同じ服装で僕の目の前に座っていたし、僕の手を握る手は白く、そして温かかった。


「終わったよ」

先輩はもう一度云った。それは現実の世界での先輩の言葉で、なぜだかはわからないが、本当に終わったのだと、僕にもわかっていた。

身体に取り憑いていた違和感や不安感がない。ただ全身にぐっしょりと汗をかいてはいたが、それも不快ではなかった。

僕の手を握っていた先輩の手から力が抜ける。はっとしたように僕も手を引くと、照れ隠し紛れに鼻をこすろうとした。途端にその感触に驚く。

濡れているのだ。顔が。

それは汗ではなかった。明らかに汗ではなく、僕はいつのまにか泣いていたのだった。

悲しいわけでも、痛みがあるわけでも、恐怖していたわけでも、感動したわけでもなかった。いや、自分の身に起きたことと先輩の“個性”という力に驚きはしていたが、それが理由ではなかった。ただ僕は泣いていたのだ。わけもなく。

そして自分が泣いていることに気づいたとき、僕はどうしてもその感情を抑えることができなくなっていた。

「ああ…」

それだけ呟くと口元がわなわなと震えた。

そして僕は、それから泣いた。

大泣きに泣いた。

ひたすらに涙をこぼして嗚咽した。


深夜を回ったファミレス、その一番奥まった席の周りには誰もいないことが幸いだった。いや、誰かが周りにいたとしても僕は泣き続けただろう。声をあげることだけはしなかったが、それでも僕はひたすら泣き続けた。
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