アリスズc

 聞こえない音が届いた後──桃は、動けなくなった。

 自分の身体が、自分の支配下から失われ、無機質なものになった気がする。

 これが、魔法。

 己の身を持って魔法を受けたのは初めてだ。

 これほどまでに、一方的な力とは想像もしていなかった。

 まだらの白い髪。

 白い部分は、全体の三分の一もない。

 その白い部分が、魔法の力を表しているというのならば、この男はトーの足元にも及ばないはず。

 あの歌う白い獣には、もっともっとすごい力があるということだ。

 だが、彼は一方的な力を使うことは、決してなかった。

 歌うことで、人を魅了することはあっても、人をそれで支配しようなどとは思っていない。

 トーが。

 彼が、月の側から離れた理由が、桃の中ではっきりと色づいてゆく。

 これまでの、憎しみにかられ剣を振るってきた人たちだけでは、よく分からなかった。

 だが、いまならば分かる。

 暴力的な力の行使を──強いられたのだ。

 あれほど見事な白い髪。

 周囲に、さぞや期待されたに違いない。

 イデアメリトスを滅ぼす男として。

 伯母に、トーの話を少し聞いたことがあった。

 彼は、世捨て人だったと。

 自分が生きていれば世を乱すからと、トーは世界中から自分という存在を隠そうとしたのだ。

 それほどの力を決して使うことなく、彼はただ歌った。

 人を癒し、幸せにしようと。

 桃が生まれるのを助け、祝福をくれた──大事な大事な人。

 彼が、皺ではなく傷を増やすのは、誰のせいか。

 頭の奥で、火が燃える。

 彼が、夜を憂い続けるのは、誰のせいか。

 指先は、まだ動かない。

 だが。

 カタッ。

 桃の刀は。

 微かに動いた。
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