アリスズc

『桜に会ったら、よろしく言っておいてね』

 母は、テルにそう微笑んだ。

 桜。

 母の国の樹木。

 その木が、この草原にあるという。

 そこが──母の降り立った場所なのだ。

 探すまでもなかった。

 ここは、草原なのだ。

 背の高さがほぼ均一な草むらから、一本だけ飛び出したものがある。

 あれが、そうだろう。

 薄桃色の霞のかかった木。

 テルは、最初それは葉の色なのかと思っていた。

 だが、近づくと違うことが分かる。

 全て。

 その霞の全ては、美しい花だった。

 葉の緑など、どこにもない。

 ただただ花でいっぱいの、幻想的な木だった。

 木に敬意を払うかのように、周囲に草は生えていない。

 そんな花の下に、男が座っている。

 無心に、その花を描いている──絵描きのようだ。

「マリストロイガーノス…」

 エンチェルクが、怪訝そうに男の名を呼ぶ。

 テルも、その名には聞き覚えがあった。

 父と母の絵に描かれているサインでもあり、キクの道場に出入りする絵描き。

 だが、男は自分の名に反応などしなかった。

 取りつかれたように、この木を描いているのだ。

「これが…桜か」

 テルは、木の幹に手をあてた。

 ざわりと、違う空気がテルのうなじを撫でる。

 木の周囲だけ、この国のものではない時間を感じた。

 テルは、花を見上げた。

 空は薄桃色に染まり、めまいに似た気分を、味わわされる。

 嗚呼。

 血が。

 自分の中に流れる、母と同じ血が──騒ぐ。
< 130 / 580 >

この作品をシェア

pagetop