アリスズc

 エンチェルクは、幻を見た。

 テルが木の幹に手をつき、花を見上げた瞬間。

 涼やかな風が、足元から上へと舞い上がったのだ。

 一瞬。

 自分が、花園にいるかと思った。

 吹きすさぶ、桃色の雨。

 桃色の霞を帯びた木が、自分を取り囲んでいる。

 どこまで行っても、花、花、花。

 これほどの美しい景色を、エンチェルクは見たことがなかった。

 そして。

 同時に思ったのだ。

 ウメ、と。

 彼女の着物姿を思い出す。

 この世界の中、ウメが着物で歩く。

 これほど、相応しいものはないと思えたのだ。

 泣きたく、なった。

 着物のウメの向こうにある、日本という国に手を伸ばしたくなったのだ。

 自分の心を、強くゆさぶる病。

 それを治すために旅に出されたはずなのに、エンチェルクはまだ駄目だった。

 手を伸ばせば。

 あの木の高いところに、この手が触れられたなら。

 ウメのいた世界に、触れられる気がする。

 一歩。

 吸い寄せられるように、エンチェルクが足を踏み出しかけた時。

 身体が、言う事をきかなかった。

 あ。

 花が──花園が消える。

 それを追おうと、彼女は足を踏み出そうとするのに。

 自分の身体は、前に進まない。

「あっ…」

 もう一度、強い風が吹いた。

 花園は、消えてしまった。

 目の前にあるのは、テルと一本の木だけ。

 そして。

 振り返ったら。

 ヤイクが、不機嫌な顔のまま──エンチェルクの腕を掴んでいた。
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