アリスズc

夫人宅の一夜


 朝日を浴びる桜を、後にする。

 桃は一度振り返って、木とマリスに手を振った。

 彼はまだそこに残り、絵を描くのだという。

 少なくなっていたマリスの食料を見て、ハレは多くの保存食を分けた。

 好きなだけここで描くといい、と。

 どうせあと半日で、すぐに次の町だ。

 桃が、またそこで買い出しに行けばいいだけのこと。

 だが。

 次の町には、イエンタラスー夫人の屋敷がある。

 初めて会う彼女のことを思うと、桃は胸が高鳴るばかり。

 母の、厳しい躾の数々を思い出す。

『そんなことでは、夫人に会えませんよ』

 ごくり、と桃は唾を飲み込んだ。

 昼過ぎ。

 町に入り、そして──大きな屋敷の前に立った。

 すぐに従者が飛び出して来て、彼らを中へと案内する。

 美しい庭だ。

 日々手入れされ、緑も花も輝いている。

 扉の中で、女性が待っていた。

 随分年を召しているが、ゆるやかな立ち姿には、威厳さえある。

 そして。

 ハレに。

 これまで桃が見た中で、一番美しい挨拶をするのだ。

 桃は、母のものが、一番美しいとずっと思っていた。

 しかし、彼女のそれは、どんな絵よりも美しい一瞬の静止を見せたのだ。

 これが。

 この人が──イエンタラスー夫人。

 母の恩人にして、桃の心のよりどころのひとつ。

 ハレといくらかの話を交わしている間、桃はずっと彼女を見ていた。

 その視線が。

 桃で、止まった。

 刹那。

 その瞳が、見る間に涙をたたえてゆく。

「私は、早速部屋にでも入らせていただきましょう」

 そんな夫人を、ハレは優しく置き去りにした。

 コーも、彼に連れ去られてしまう。

 残ったのは。

 自分と、夫人。

 ええと、ええと。

「初めてお目にかかります…イエンタラスー夫人。桃と申します」

 一番美しいご挨拶が──出来ただろうか。
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