アリスズc

 キクは、本当に沢山のことをテルに教えてくれた。

 剣の事だけではなく、どうやって戦うかということまで。

 戦争ではなく個別の戦いでは、剣士は一人で大人数を相手にすることもある。

 圧倒的に不利な状況を、どう戦うか。

 その中のひとつを、テルは記憶から引き出したのだ。

『その昔、日本中に名の轟いた剣豪がいてな』

 キクの祖国で、伝説のようにいまも残る男の話。

 テルは、とにかくヤイクと全力で走っていた。

 彼は、剣の一環で身体を鍛えてはいたが、まだ子供の姿であったし、ヤイクは体力には自信のない男だ。

 それでもヤイクは、ここまでの旅路を歩いてきたのである。

 都でなまりきっていた足も、多少は強くなっているようだ。

『その男は、一人で何人も相手にして生き延びてきた』

 テルたちが逃げたことで怒りが爆発した連中が、猛然と後方から追ってくる。

『確かに男は強かったが、強いだけではなく…』

 飛びぬけて足の速い連中が、彼らの傍まで迫った時。

 振りかえりざまに、ビッテとエンチェルクが、それらを斬り捨てる。

『強いだけではなく…足が速かったのだ』

 キクが、ニヤッと笑った。

 テルの頭の中で。

 彼も、同じ笑みを浮かべた。

 悪い、戦い方だ。

 しかし、一対一ではないのだ。

 より不利な立場の人間は、生き延びるために知恵を絞る。

 最初に十分な距離があったおかげで、すぐに全員に追いつかれることはない。

 後方で二人が斬っては走り、また斬っては走りを繰り返す間、二人はただひたすらに距離を稼いで走る。

 後方の武人より、どうしても足が遅いのだから。

 百人いようが、一度に数人ずつしか相手にしなければ、それは百対一ではない。

 これならば、少しずつ向こうの戦力を削っていけるのだ。

 夕日が沈んでゆく。

 月が昇ってゆく。

 だが沈んだ太陽は──決して死ぬわけではなかった。
< 196 / 580 >

この作品をシェア

pagetop