アリスズc

 母の雑巾を奪い取り、桃は掃除の続きを始めた。

「時々、掃除に来てたのよ」

 椅子に座らされ、困った顔を浮かべながらも、母は静かに身の回りの話をする。

 長い旅路から、娘が帰ってきたのだ。

 娘が、どんな体験をして、どんな思いを持ったのか。

 そんな核心の話までの道のりを、母はゆっくりとたどるのだ。

「お掃除!」

 コーも、水の入った桶を抱えて手伝ってくれる。

 これまで、彼女は掃除を必要としない生活だった。

 野宿では勿論、領主宅や宿では掃除をする必要がなかったのだ。

 新しい体験を、コーは楽しんでいる。

「桃、こういうの何ていうの?」

 綺麗に拭きあげられた部分を、指で撫でながら問いかけられる。

「んー…ぴかぴか、かな」

「ぴかぴか!」

 コーの言葉の後から、光が弾けそうだ。

 同じ言葉を口にしているというのに、彼女が音にすると、途端に命が生まれる気がする。

「コー」

 母が、緩やかに彼女に呼びかけた。

「なあに、梅?」

 母のことを名前で呼べる、その心臓が桃には少しうらやましいほどだ。

「あなたが望むなら、私が言葉を教えましょうか?」

 まだ。

 まだ、何もコーの話はしていない。

 彼女と、どうやって知り合ったか。

 最初はどうだったかなど、母には話していないのだ。

 そういうことを、コーの前でするのは憚られるので。

 だが、母は的確に彼女の才能を見抜いていた。

 母の名を、一発で日本式に呼べたことは、本当に驚きだったのだろう。

 あー。

 桃は、口が挟めないまま、コーを見た。

 母に学ぶのは、とてもいいことだ。

「言葉を教えてくれるの? コー勉強する!」

 すぐに食いついた彼女に、桃は多少の心配と同情を禁じ得なかった。

 母の指導は──とても厳しいのだ。
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