アリスズc

テテラの子供たち


 リリューにとって、エンチェルクは姉弟子になる。

 彼女は、静かな人ではなく、静かになろうとした人だ。

 その多くの理由は、伯母であるウメのために。

 そんな彼女と、いまリリューは一緒に旅をしている。

 将来、賢者になるはずの男──ヤイクを護衛して。

 とは言うものの、もう歩く旅はうんざりだと、彼が自分の荷馬車を出したため、随分と楽な旅路になるようだ。

「君の故郷が襲われた日のことを、覚えているかい?」

 荷馬車の中で、ヤイクはその話題をリリューに振った。

 ちらりとエンチェルクが、非難めいた視線を彼に飛ばしたが、気にかける素振りもない。

「少しだけ…」

 あれほどの鮮烈な光景は、忘れようと思っても忘れられない。

 それどころか。

 父も母も、忘れさせようとはしなかった。

 あの恐ろしい日の上に、いまのリリューがいるのだ。

 だから、エンチェルクが気を遣う必要はなかった。

「見なれない鎧を着た兵士が襲ってきて、町のあちこちから火の手があがり、みな逃げていました」

 目を閉じると、黒と赤だけの世界を思い出す。

 夜の闇の中で燃え盛る炎。

 そして、同時に。

 炎に作られた、母のシルエットを思い出す。

 人から獣になり、そしてもう一度人に戻った瞬間だった。

 ヤイクは、そうかとだけ答えた。

 さすがに子供の記憶では、それ以上の情報は引き出せないと思ったのだろう。

 そんな彼が、ふと何かを思いついたように、リリューを見た。

「ところで…君は泳げるのかい?」

 刹那。

 自分の全身が、深い青に包まれた気がした。

 太陽の光が、割れて砕ける水面を見上げた、遠い遠い記憶。

 港町で産まれた男は、産湯代わりに海に浸かる。

「おそらく…泳げます」

 この身体は、泳いだことを忘れていない気がした。

「そうか…私は泳げない。もしもの時はよろしく頼む」

 この国は、内陸にほとんどの人間が住んでいるため、一生泳ぎと無縁の人間も多い。

 ということは。

 リリューは、黙ったままの姉弟子を見た。

 エンチェルクもまた、泳げないのだろう。
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