アリスズc

 水。

 身体中に、まとわりつく水、水、水。

 一瞬、重力の向きが分からなくなる。

 夕方の橙色の太陽が、水の中の世界をも黄昏色に塗りつぶすそんな水中で。

 リリューは、見た。

 海底に並ぶ、おびただしい数の──墓石を。

 ああ、ああ。

『どうせ死ぬなら海で死ぬ』

 彼の脳を激しく揺さぶる、記憶の言葉。

 それが、港町の男たちの口癖。

 その願いをかなえるために。

 町の人たちは、彼らの墓を海の中に作ったのだ。

 勿論、遺体はここに埋まっているわけではない。

 しかし、彼らの魂をここで慰めたいと、生き残った人たちはそう思ったのだろう。

 港町の人間以外、ほとんど泳げないこの国では、この光景を目に出来る者は少ない。

 あの悲劇の日を知っているのは自分たちしかなく、そして、自分たちだけでいいという町の心が、この景色の中にあった。

 リリューは。

 誰のものとも知らない墓石に、しがみついた。

 長い歳月は石を浸食し、彫られていたかもしれない文字さえかき消している。

 墓石には小さな貝がつき、小魚が隙間を縫って泳ぐ。

 帰って、きました。

 リリューは、石に額を押し付ける。

 長い間、無沙汰をしました。

 町の人の誰ひとり、きちんと思い出せなくとも、誰からも彼自身が覚えられていなくとも。

 この水の中こそ、間違いなくリリューの故郷だ。

 やっと、彼は故郷に帰りついたのだ。

 差したままの定兼が、息を吐いた。

 わずかに鍔が揺らいだのだ。

 この場所に定兼もまた、何かを思ったのか。

 リリューは、こう思った。

 私は死んだら。

 海になろう。
< 394 / 580 >

この作品をシェア

pagetop