アリスズc

 夜、ヤイクが賢者宅を訪ねてきた。

 ロジア宛ての書状を携えて。

 テルからのものだった。

 彼女は、ソファに背を預けたまま、けだるげに片手を差し出す。

 ジロウと離れ別室に来たため、すっかり気力が低くなっている。

 ヤイクの表情は、瞬時に険しいものに変わった。

「これは、次の太陽になられる御方からの直々の書状だ。他国人にそれをありがたがれとは言わないが、礼儀くらいは守ってもよいのではないか?」

 ひどい鞭の一撃だ。

 市井に混じるのを得意とする、風変わりな貴族であるヤイクも、異国の人間を前にすると何もかも変わってしまう。

 それは、港町のロジアの屋敷でも、痛いほどエンチェルクは味わった。

 まつりごとの隙を、決して見せまいとするのだ。

「失礼致しましたわ」

 言葉だけの畏まりではあるが、ロジアはとりあえず両手でそれを受け取った。

 書状を開いた彼女は。

 目を。

 大きく見開いた。

「どういう…ことですの?」

 彼女は、その紙をぴらりと空に掲げる。

 脇に控えているエンチェルクからも、よく見えた。

 まったくの白紙。

 ただの一文字も、書かれていない。

「そのままだ」

 ヤイクも承知しているのか、動じる様子はない。

 一度目を伏せた後、まっすぐにロジアを見た。

「殿下は、異国人であるあなたに…何一つ、要求も強いることもないとおっしゃった」

 憮然とした言葉だ。

 決して、ヤイクがそれを快く受け入れた訳ではないのだと分かる。

 だから、あんな風に最初に鞭を振るったのだろう。

「本当は、我々は数多くの異国の情報を必要としている。しかし、殿下はあなたが子どもの頃に無理矢理連れて来られたということと、その後あの町を愛し、人々にしてきたことを考慮された」

 結果。

「キクかウメのところにいる限り、ほぼ自由の身ということだ」

 最後の最後で。

 ヤイクがねじ込んだだろう言葉が、転げ出た。

『ウメ』

 ロジアが、今日初めて会ったばかりの、キクの姉妹。

 彼が認めるウメを側に置くことで、ロジアの知識を完全に放免する気はない、ということだった。
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