アリスズc

 媚を売る相手以外に水を差されて、男は笑みを消した。

「失敬な、お前は一体…!」

 上手にでかけたその唇は、途中でぴたっと止まる。

 こんなまちなかにいるのだから、ヤイクを一瞬平民と見誤ったのか。

 だが、気づいてしまったようだ。

 悪い意味で、彼は貴族や役人の間で有名だろうから。

「さあ、私は一体誰だろうな」

 口元を歪めたように笑う顔の、悪いこと悪いこと。

 明らかに、脅しの深読みをさせるための言葉と表情で、下っ端をいたぶっている。

 ふぅ。

 エンチェルクは、吐息をついた。

 彼がこなくとも、問題はなかっただろう。

 だが、これで報告する必要がなくなった。

 直接、彼に話をすることは、いまも難しい。

 向こうが、それを望んでいないのだから。

 逃げて行く男の背中を、ちらと見送った後。

 ヤイクが、こちらを向いて歩き出す。

 一瞬、どきりとしたが、彼はそのままエンチェルクの横を行き過ぎるのだ。

 三歩行き過ぎて。

 その足が、ぴたりと止まる。

 振り返ることのないその背が。

 こう言った。

「さっさと歩け。また変なのに捕まるぞ」

 言葉が終わるやいなや、四歩目が踏み出され、彼はどんどん歩いて行ってしまう。

 エンチェルクは、茫然としてしまった。

 今のは。

 独り言じゃ、なかった。
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