アリスズc

「何か…面白いものでもありますか?」

 馬鹿なことを、聞いた気がする。

 何故もっと、気のきいた言葉を選べなかったのだろうか。

 一生懸命、彼に向けて言った言葉が、こんなものなのだ。

 言葉の後の沈黙は、一瞬が永遠に感じるほど長く、そしてその間に、エンチェルクの心は沈んでいったのだ。

 なのに。

「いや…何もない」

 言葉が、返される。

 テルの護衛として旅立って以来、やっとまともに言葉を交わした気がした。

 その前は、自分から語りかけることはなくとも、わずかながらに言葉を交わすことは出来ていたのだと、ふとこの時に思い出せた。

 旅立ってから、ウメとひきはがされた苦痛で、エンチェルクはかたくなになっていた。

 旅の中で、いろいろなことがあったが、彼女はこの男との語り方を完全に忘れてしまい、ついにはあらぬ方を向いて語ることで心の平穏を保つ方法を覚えたのだ。

 そんな自分が。

 いま、長い長い時間を経て、ヤイクと直接話が出来た。

 他愛のない、この国にとって何の意味もない話を。

 彼は、再び歩き出し、エンチェルクも慌てて足を踏み出した。

 まだ。

 胸が飛び跳ねている。

 無視されたら、どうしようと恐れていた。

 無視されたならば、この振り絞った勇気は地に落ち、しばらくこの男との会話は、間接的であってもすることは難しかっただろう。

 自分との身分の違いの溝を、また覗きこむだけの結果となったのだ。

 弾む心臓を押さえながら、エンチェルクはほっとしようとした。

 自分のしたことが、間違いではなかったのだと落ち着こうとした。

 こんなことなど、ヤイクにとっては取るに足りないことなのだ。

 当たり前に、町民と話をするではないか。

 せいぜい、自分から声をかけるなんて、珍しいと思っている程度。

 会話が成立したなんて、当たり前すぎる不自然な話は、ウメにも出来はしない。

 それでも。

 エンチェルクにとっては、特別な出来事だった。
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